投稿

2021の投稿を表示しています

寒波来たりて

年の瀬が押し迫り、寒さがますます肌にしみる頃である。 この12月25日から27日にかけて大寒波が日本列島を襲った。そのころの私はというと、天候のことなど全く気にもせず小旅行に出かけていた。冬の旅行は寒さとの闘いであるということを思い知った。 それはさておき、26日夜、私は高速バスの車内にいた。先述の小旅行の帰りである。この時期のこの地方としてはまれに見る寒さで、道路脇にはうっすらとではあるが雪が積り、高速道路の一部区間は通行止めで、バスの運行状況としてはかなりの遅れが出ていた。 交通規制もあり、バスはかなりゆっくりと進んでいた。Googleマップのカーナビ機能で見てみると時速25kmほどだった。正直なところ、これでは終電に間に合わないのではないかという不安や焦りもあったが、天候のことばかりは仕方がなく、誰も責められない(ちなみに、結局終電を逃しタクシーで帰ることになった)。 バスがなかなか進まぬ中、外を見るとたくさんの人が働いていた。融雪剤を散布する車、雪が降るなか車線規制の看板や案内板を設置する人。隣の車線を見ると運送会社のトラックが走っていた。夜中の運転はハードだろう。少し気が抜けてしまったり、不運と踊ってしまったりすれば命を失う。命まで失わなくとも、荷主に大きな損害を与えるかもしれない。こういう人が日本を支えているのだなと思った。そもそも私を運んだ高速バスの運転手だってそうである。難しい道路状況での長時間の運転、遅れたとはいえ無事に送り届けてくれたことが本当にありがたいと思った。 このようにハードに働く人がいるなか、今日も私はぬくぬくと暮らしている。

ブログ記事から一年を振り返る

 ブログ記事から一年を振り返る。タイトルの通り。 【1月】 https://taihaikuukyo.blogspot.com/2021/01/blog-post_8.html 寒すぎるなどと泣き言を言っている。昨冬は地元では10年に一度レベルの大雪だったし、寒いシーズンだったのだろう。と言っている今も「日本海側で数年に一度レベルの大寒波か」などと報道されているのだが。 ほかには、自分の髪で筆(?)を作り、下手な書き初めをしたのが印象的と言えるだろう。 h ttps://taihaikuukyo.blogspot.com/2021/01/blog-post_15.html 【2月】 https://taihaikuukyo.blogspot.com/2021/02/rakuten-mini.html 一年間無料キャンペーンに乗じて楽天モバイルを契約し、Rakuen mini を入手してウキウキだったらしい。実際いい端末だとは思ったが、メインで使っていくには難しい。データ通信をほとんどせず、電話(と電子決済くらい)にしか使わないのならメインでもOK。通信速度とエリアはまだ他の3大キャリアには及ばないが無料期間が終わっても1GBまではデータ通信料が0なのでまだ使っていこうと思う。 ほかには佐々木朗希の記事が印象的。今シーズンは一軍でもある程度活躍し、クライマックスシリーズでも先発登板で活躍した。来年こそ一年間フルで活躍するだろうか。 https://taihaikuukyo.blogspot.com/2021/02/blog-post_17.html 【3月】 https://taihaikuukyo.blogspot.com/2021/03/blog-post_3.html まず、ウマ娘に多少ハマっていた。7月の初旬くらいまではそこそこやっていたが、飽きちゃった。キャラもユニークで面白かったが育成にかかる時間が長かったのとあとは単に自分が雑魚だから。 【4月】 https://taihaikuukyo.blogspot.com/2021/04/blog-post_11.html 浜松に行き、ヤマハイノベーションロードを訪れていた。それなりに面白かったし、いい余暇の過ごし方だった。浜松という街の雰囲気はけっこう好きだなと思った。 最近はあまり食べていないが、この...

歩く

 最近は歩くことを意識している。 目的としてはまず健康のため。まだ大丈夫そうではあるが、20代後半から30代半ばごろにかけて突然体脂肪が落ちなくなると聞く。その時が来る前に、日頃からそれなりに運動することを習慣としておきたい。 そして老後のためでもある。そんなに長生きしたいと思うわけでもないが、今の時代、人間なかなか死なないものである。老いてもせめて自力で食事排泄風呂ができるようにしたい。そのためには加齢で急速に衰えるという足腰をしっかりと鍛えておきたい。 とまあ、健康のため・老後のためというお題目を掲げたものの、そもそも歩く量が少なすぎたのである。今までは平日は2,500歩ほど歩けばよいほうだった。自転車に乗り、それなりに長くて急な坂を上る必要があったから全く動いてなかったわけではないのだが、それにしても歩数が少なすぎである。たまの休日に10,000歩ほど歩くと翌日は間違いなく筋肉痛になり、なんならその日は家に帰ってきたらもう動けないくらいだった。 最近は一日5,000歩を目標にしている。時間に余裕があるときは自転車をわざと押して歩いたり夜に散歩したりして歩数を稼いでいる。5,000歩でも多くはないが、以前までよりはマシである。それに Coke ON アプリのスタンプも貯まる。これからもできるだけ歩いていきたい。

折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー

表題通り、現代中国SF13編を収めたアンソロジー。 このような短編集や、複数の作品を収めたものは掲載順を気にせずに、興味をもったところから読むという読み方もあると思うが(私はそうしないが)、本書においては前書きは読んでおくとよいかもしれない。 編者であるケン・リュウは前書きで、「貧富の格差や、検閲といった現在の社会問題への風刺というコンテクストで中国のSFを読みたくなるのはわかるが、できるだけそうした誘惑に抵抗してほしい」と述べている。私も中国SFに限らず、SFには未来予測や社会風刺のコンテクストを見出しがちだが、中国SFにはより強くそういうイメージを持っていた。そういったコンテクスト性を完全に排して読むのは難しいかもしれないが、「中国SF」という先入観は除いて読むこととした。 もっとも面白いと感じたのは全世界的人気作「三体」の作者、劉慈欣がその「三体」から抜粋改作した「円」だ。舞台は古代中国で、荊軻という燕国からの刺客が後に中国を統一し「始皇帝」となる秦王政に謁見するところから始まる。史記では荊軻は政の暗殺を試みて返り討ちに遭うが(高校の古典の授業で習った人もいるかもしれない。私は習った)、この「円」では荊軻は政に取り入り、配下として気に入られる。天の理(ことわり)を知りたいと望む政に荊軻はそれは図形と数字に現れると話し、そして円周率10万桁の計算を命じられる。 まさしく社会問題の風刺というコンテクスト抜きに、古代中国において円周率を10万桁まで計算するというサイエンスの壮大さもありながらいかにも"ありそう"と思わされる感じと、いわば"荊軻のifストーリー"というフィクションの側面がうまく噛み合っており、サイエンス・フィクションとして素直に面白い。「三体」は未読なのだがぜひとも読んでみたいと思わされた ほかには「沈黙都市」「折りたたみ北京」が印象的だった。巻末には中国の文学の世界におけるSFに位置づけ、歴史についてのエッセイも収録されており、それもなかなか興味深いものだった。

高雄市の衝撃

 台湾の地名、「高雄」は日本統治時代に改称された地名だったらしい。そして日本統治時代は「たかお」と呼ばれていたなんて。 もともとは「打狗(ターカウ)」という地名だったらしい。また、現在の嘉義県に「民雄」という地名があるが、その地域はもともとは「打猫(ターニャウ)」と呼ばれていたらしい。台湾総督府はこれらの地名(『犬を打つ』、『猫を打つ』)を卑俗とし、改称することとした。打狗と打猫は見てわかる通り、対になっている地名である。そういった点も考慮して、それぞれを読み方の近い「高雄(たかお)」、「民雄(たみお)」に改めたということだ。 新聞などで高雄市という単語を見かける度にかっこいい字面だと思っていたが、もともとは「たかお」と呼ばれていたなんて思いもしなかった……(まるで人名じゃないか)。そういうわけで、日本では台湾の地名は漢字を音読みするのが通例だが、高雄市は「こうゆうし」ではなく今でも「たかおし」と読むことがあるようだ(台湾語の読み方を片仮名にして「カオシオン」と読むこともあるらしい)。 そういうわけで「たかお」「たみお」を覚えておこう。情報源はすべてWikipediaです。

生活

 私の部屋はとにかく断熱性が低い。この時期は本当に冷え込みがひどい。とはいえ、夏が灼熱というわけでもない。断熱性とういより唯一の窓が東側であり、そこに高い建物があることが要因かもしれない。少しでも寒さをなんとかできないか(そしていかに節電するか)を考えて、100均などで隙間テープでも買ってみようかとも思ったが唯一の窓を塞いでしまうのは得策ではない。洗濯のときなんかにとても困ってしまう。私の家の洗濯機には乾燥機能がないのだ。 そういうわけで毎朝とても寒い。布団からなかなか出られない。床の冷たさに驚く。起きる30分-1時間前にエアコンが稼働するようにオンタイマーをかけて寝ると寒さはいくらかましになる。その代わりに、とんでもなく口が乾く。喉がカラカラになる。 なんとか布団から出て、支度を済ませて家を出ようとするとドアノブの冷たさに驚く。 昔、刑事ドラマかアクション映画で、火事が起きている部屋に入ろうとドアノブに触れて火傷するみたいなシーンを見たことがあるがそれを思い出す。ドアノブなんか不用意に触るべきではない。 こんな12月を私は生きています。

死なないこと、楽しむこと、世界を知ること

 死なないこと、楽しむこと、世界を知ること。

映画 フィールドオブドリームス

イメージ
土曜に見た。 音楽がいい。 野球に関心がない人だとやや退屈かもしれない。が、そんなことはどうでもよくて、この映画のロケ地に隣接する形でMLBが球場をつくり、試合を主催し、そしてそれが興行的に大成功となっているのが素晴らしい。 トウモロコシ畑から選手が入場してくるところがかっこいい。

2021年のAmazon注文履歴を振り返る

イメージ
2021年のAmazon注文履歴を振り返る ①レック激落ちシート 超厚はちょっと値が張るけどとてもよい。厚いぶん湿り気がなくなりにくい。つまり、シートを変えずにより広い面積を拭くことができる。 ②大建プラスチックス タオル掛 ユニットバス(誤用)のアパートに住んでいるのだが、扉部分にタオル掛けがある。膝だか腰だかが痛くて風呂に行くときにタオル掛けに体重をかけてバスルームに入ろうとしたらバキッといった。バーの長さ、ネジ間の距離などを測って購入。ちゃんとサイズが合っていてよかった。前のやつはだいぶプラスチックが劣化していたので仕方ない出費だったと思おう。 ③プロスタイル モーニングリセットウォーター 寝癖直し液。1Lで700円を切るので量あたりの価格はかなり安い部類(だと思う)。レビューを見ると「髪のクセが直りにくい(他製品に比べ一度に必要な量が多い)」みたいな評価もあるが自分には十分だ。 ④オムロン 電子体温計 けんおんくん ずっと体温計を持っていなかったが、ご時世がご時世。在庫も落ち着いた(?)ようだったので購入。あまり使っていない。ワクチン接種前には予診票を書くために使った。そんなに使ってないからいい悪いはわからないが、今世界を賑わせているアレがなくても体温計はあったほうがいいので、入手するためのいい機会だったとしよう。 ⑤PDA工房 Xiaomi Mi 11 lite 5G 保護フィルム Mi 11 lite 5G は始めから一応画面にフィルムが貼られてはいるが、指の滑りがいまいちだったので購入。サラサラで指の滑りはかなり改善された。反射低減なので画面の鮮やかな感じは若干失われるけどいい商品です。 ⑥アネロン「ニスキャップ」6カプセル 船釣りに行く機会があったので酔い止めとして。用量用法には1日1回1カプセルとあるが3カプセル飲んだ。最初のスポットに向かうまでが若干きつかったが、次第に慣れて船酔いで潰れずに済んだのでよかった。 ⑦毛布 今までペラペラの掛け布団だけだったが寒さ対策に購入。届いたときはこの毛布の薄さに(値段が約1,600円と安かったこともあり)「寒さを凌ぐのに意味があるのか?」と思ったりもしたが、しっかり温かい。マイクロファイバー繊維すごい。薄くて軽いのにしっかり温かいって最強でしょ。 ここに書かなかったものもあるが本とかが多い。意外に買い物しなか...

犬はどこだ

 犬はどこだ 米澤穂信 ネタバレ要素あり。「要素あり。」どころかガッツリネタバレ。 まあ、重めな話だった。 === 主人公の紺屋長一郎は銀行員として働いていたが、体を壊して療養を経たのち社会復帰の一環として自営業、犬捜しを想定した調査事務所を開業した。 しかし最初に舞い込んだ依頼は「人捜し」であった。失踪人の名は佐久良桐子(サクラトウコ)。依頼人はその祖父。桐子は東京で働いていたが突然会社を辞め、一人暮らしをしていた部屋も引き払い、その後は連絡がつかなくなっていた。桐子の両親は彼女なりになにかあるのだろうと考えあまり大事とは捉えていないようだが、心配になった祖父が相談に訪れたというわけだ。失踪というと警察にでも相談したほうがよさそうなものだが、物語の舞台が小規模な地方都市であること、とりわけ祖父の暮らす地域はかなりの田舎であり、桐子の20代半ばという年齢を考えればたとえば結婚に差し支えるような変な噂がたってほしくない、大事(おおごと)にしたくないとのことである。 各方面への聞き込みなどから長一郎は、桐子はエマというハンドルネームを使ってブログを運営していた中堅ブロガーで、ブログ内BBSであるユーザーに粘着されていたこと、そしておそらくそのユーザーがブログの投稿などから桐子の会社や住所を突き止めブログ内BBSのみならず、実際にストーキングをしているだろうと考える。つまり、桐子が身を隠している理由はストーカーから逃れるためではないかということになる。問題は桐子が今どこにいるのか、ストーカーのトラブルは解決できそうなのか、という点なのだが…… 結論から言えば、桐子はストーカーに自宅を突き止められ、強姦された(それを表沙汰にできないのは桐子には結婚まで考えていた恋人がいたから)。そして桐子はストーカーを殺害する計画を立てていた。彼女は単にストーカーから逃げていたのではなく手がかりを散りばめ、おびき寄せていた。長一郎が桐子の居場所に辿り着いたときには桐子は既に殺しを終えていたようだと推察され、長一郎は「見つけ出したのでお祖父さんによろしく」ということを言ってそそくさと退散する。 === この話は2004年の出来事ということになっており、「そのころからこういうインターネットでのトラブルはあったんだな~」というのが率直な感想。桐子はブログの投稿内容からストーカーに特定を許...

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

 現代SFの金字塔。実は読んだことがなかった。 物語の読み方は様々であるが、この作品についてテーマをまず一つに絞るのなら、高度に発達した人間型ロボット(アンドロイド)と人間の区別、関わりがテーマであり、もう少し踏み込んで言えばアンドロイドと人間の対比によって「人間とはなにか」を浮き彫りにしていると言える。 そして「人間とはなにか」「人間とアンドロイドはなにが違うのか」という問いへの答えはマーサー教の教義が全人類の一体感・感情の共有であることからも、アンドロイドと人間を見分ける手法であるフォークト=カンプフ法の評価基準が他者への共感の度合いであることからも、暫定的には他者への共感・感情移入ということになるだろう。 しかしながら、「ネクサス7型ではカンプフ法による区別はできないかもしれない」というような描写(既にレイチェルをテストで判別するのには困難を伴った)や、(テストによる評価ではなくあくまでリックの主観的な評価として)「あまりにも人間らしいアンドロイドに出会った」というような言及があることから、それもまた不確かなものであると言えるだろう。 一方で物語の終盤、テレビ放送での暴露によってマーサー教が作り物であるということが知れ、「共感が人間だけのものなんて嘘っぱちだ」と狂喜乱舞するアンドロイドたちは、クモの足を切断していくことに強い抵抗を示すイジドアの感情を全く理解できないという態度を示しており、最新のネクサス6型と人間の間にも依然として大きな違いがあるとも思わされる。 タイトルに電気羊とあるように人間以外の動物もロボット化されているため、人間-アンドロイドという対比をさらに広げて、生物-ロボットという見かたもできるのかもしれない。 === 各シーンについては先述の、アンドロイドたちが興味本位でクモの足を切断していくなかイジドアが強い抵抗感をもつというシーンが特に印象的だった。フィル・レッシュやレイチェルとの関わりのなかでリックがアンドロイドに対しても共感を持ちつつあるということを描いたのちにこれがきたのは、"やはり人間とアンドロイドとでは大きな隔たりがあるのでは"と強く感じさせられた。 あとは、イジドアのような特殊者(スペシャル)が俗にピンボケと呼ばれているのが印象的だった。原書ではどういう言葉を使っているのだろうか。知能テストをパスできず、死の...

Mi 11 lite 5G に MIUI アップデートがきた

MIUI 12.5.4 から MIUI 12.5.6 へのアップデートがきていたので更新した。 変更点①:メモリ拡張機能 一部ガジェットサイトなどでMIUI 13 から実装されるとされていた仮想メモリ(ROMの一部をRAM的に使う)だが、この 12.5.6 で既に対応してきた。設定>追加設定>メモリ増設 でこのメモリ拡張を使うか使わないか切り替え可能。 変更点②:セキュアエレメントの位置 Mi 11 lite 5G はハードウェアとしてはFeliCa(Suica や Edy など)とNFC(VISAタッチなど)の両方に対応していたものの、その双方を自動判別して同時に使うことはできなかった(FeliCaを使うかNFCを使うかを切り替えるには設定から"セキュアエレメントの位置"を変更する必要があった)。FeliCaとNFCの両方を日常的に利用している人にとってはなかなか難のあるこの仕様だったが、今回のアップデートでセキュアエレメントの位置のオプションに「自動選択」が追加された。これによりいちいち設定にアクセスしなくとも、FeliCaによる決済もNFCによる決済もどちらも使えるようになったっぽい。 == そのほか、常時オンディスプレイ(有機ELの省電力を活かして画面オフ後も黒背景に時計などを表示し続ける機能、ただし「常時」といいながら画面オフ後10秒間しか使えない)のオプションも増えた気がする(前から?)。 === あとは、2ヶ月前くらいから勝手にダークモードが適用される(コントロールセンターや設定での表示が「ライトモード」になっていても実際には「ダークモード」仕様になる。おそらく「ダークモードをスケジュール」を使っていた関係でそのへんが変になっている)ことがあったのでこのあたりが修正されていてほしい。(11月25日追記:改善されず。昨夜19時ごろ勝手にダークモードに。)(12月2日追記:なんか最近直っている気がする。) また、Mi 11 lite 5G はベンチマーク性能のわりに一部ゲームで異常に動作がカクつくと言われていたが、自分は3Dをゴリゴリ使うゲームはやっていないのでこのあたりはわからない。

禽獣

 伊豆の踊り子 川端康成(新潮文庫)を読んだ。表題作のほかにも「温泉宿」「抒情歌」「禽獣」を収録していたが、特に印象に残った禽獣について書く。 主人公はなにやら文化芸術の関係者であり、あくせく働いている様子はない。題にあるように禽獣つまり鳥や獣を飼い、女中を雇い、悠々自適とまでいうかはわからないが比較的余裕のある暮らし向きのようである。 印象的なのは彼の動物に接する態度だ。塀の外で子どもが騒いでおり、何があったのかと覗いてみると、ゴミ捨て場に雲雀のヒナがいた、育ててやろうと近づいて子どもの話を聞き、向かいの家の人間がそれを捨てたと知ると その家には、三四羽も雲雀を飼っている。ゆくすえ鳴鳥として見込みのない雛を棄てたのであろう。屑鳥など拾ってもしかたがないと、彼の仏心は忽ち消えた。 となる。また、次のような一節もある。    だから人間はいやなんだと、孤独な彼は勝手な考えをする。夫婦となり、親子兄弟となれば、つまらん相手でも、そうたやすく絆は断ち難く、あきらめて共に暮らさねばならない。おまけに人それぞれの我というやつを持っている。   それよりも、動物の生命や生態をおもちゃにして、一つの理想の鋳型を目標と定め、人工的に、畸形的に育てている方が、悲しい純潔であり、神のような爽やかさがあると思うのだ。良種へ良種へと狂奔する、動物虐待的な愛護者達を、彼はこの天地の、また人間の悲劇的な象徴として、冷笑を浴びせながら許している。  犬が妊娠・出産し、やるべきことはわかっていたのにそれをせずに、すぐさま全部の仔犬を死なせてしまったときも 彼は仔犬が死ねばいいと思ったわけでもなかった。だが、生かさなければならないとも思わなかった。それほど冷淡だったのは、彼等が雑種だからであろう。 とある。彼が冷淡というか理想主義的であるのは動物に対してだけではない。千花子という彼が一時関係を持った舞踊家が妊娠出産を経て"肉体の力はげっそり鈍って見えた"ときには「子供がほしかったんですもの」と言う彼女に向かって  「育てる気か。そんな女々しいことで、一芸に生きられるか。今から子持ちでどうする。もっと早くに気をつけろ」 などと言う。かつて千花子と心中しようとしたときにも、裾をばたばたさせるというから足を縛ってくれ、という彼女の註文に応え、彼女の...

11月に見た映画

 まだ11月は10日あるって?細かいことはおいておこう。 今日の内容はタイトルにある通り11月に見た映画だ。普通にネタバレブログとなるが有名作であるし、そう新しくもないためネタバレの忠告が本当に必要かと言われれば必要ではないかもしれない。 アナと雪の女王 ベイマックス モンスターズ・ユニバーシティ ●アナと雪の女王 Wikipediaによれば日本での公開は2014年3月14日。実に7年半前に公開とのこと。実は見たことがなかった。 感想としては「見て損はなかった」といった感じ。自分はディズニー作品をそうたくさん鑑賞してきたわけではないが、ディズニー映画らしい面白さ、楽しさというのは十分感じたし公開された年にそれなりに世間で話題となったのはうなずける。もう少し構成に厚み(?)があれば「見て損はなかった」から「見てよかった」になったのではないかと思う。たとえば最終盤、エルサが国に戻ってきてアナを救うシーン。エルサは聞く耳も持たずに散々アナを拒絶しておきながら、自分が放った氷の矢のせいでアナが危機に瀕してようやく妹へ駆け寄るというのには、そしてそれを「姉から妹への真実の愛が妹を救った」と言ってしまうのには軽薄な感じがするなという印象を抱いてしまった。「相手を大事に思っているが、傷つけたくないが故に干渉を拒む」というジレンマは理解できるしそういう葛藤が描かれてもいたが最後の最後でやや拍子抜けしてしまった(が、それと同時に王子がアナを救うのではなく、あくまで姉妹のストーリーで留めておいたところがこの作品の良さのひとつだと思う)。時間の制約があり、さらには小さい子どもにも訴求しなければならないから仕方がないところか。 ●ベイマックス 日本での公開は2014年12月20日。公開日を調べるために見たwikipediaによればスーパーヒーロー映画らしい。まあそうか。 アナと雪の女王より面白かったしけっこう好きだと思ったが、ここに書きたいと思うようなことはあまりない。 ・「ヒロはベイマックスを自力で完成させて彼と再会し、みんなと共にサンフランソウキョウの街を守るヒーローBIG HERO 6として、今日も人々を助けるのだった。(wikipediaより)」という幕引きには思わず「何だそりゃ」と言ってしまった。文句や難癖ではなくシンプルな驚き。 ・背景がアメコミ風?になっているスタッフ...

文字渦

文字渦 円城塔   秦の始皇帝の陵墓から発掘された三万の漢字。希少言語学者が遭遇した未知なる言語遊戯「闘字」。膨大なプログラミング言語の海に光る文字列の島。フレキシブル・ディスプレイの絵巻に人工知能が源氏物語を自動筆記し続け、統合漢字の分離独立運動の果て、ルビが自由に語りだす。文字の起源から未来までを幻視する全12篇。(新潮社ウェブサイトより転載) 紹介文にもあるように、文字、とくに漢字についての短編12篇。知的好奇心を刺激されるテーマであり実際面白いと感じたのだが、明確なイメージとして話、ストーリー、プロットを掴むのはなかなかに難しい(というか自分にはできなかった)。ジャンルとしては雰囲気系SF、あるいは雰囲気系ミステリーにでも位置づけられるだろうか。 表題作にもなっている『文字渦』は中島敦の『文字禍』を"もじ"ったものかと思われるが、実際には内容としては関連は薄かったように思う。 文字というのが単に音を表すためのものではないというのは、私たちのよく知るところかと思う。私たち日本人の多くは文字自体に意味を内包している漢字を日常的に、頻繁に利用しているからだ。では、「文字というのは単に音とその文字の持つ"意味"によって情報を伝達するためのものである」とした場合はどうだろうか。これにも首を捻る人はいるだろう。書道というものがあるように、私たちは文字に対して芸術性を見出すこともできる。同じ文章であっても使用されているフォントによって受け取る印象が違ってきたりする。もっと飛躍した例でいえば、私たちの先祖は文字に大きな"力"を見出して呪符としたり儀式の道具としたりしてきた。 このような、文字のもつ力・文字のもつ生き物のような性質を扱っているのがこの本だ。 12篇のなかで特に印象的だったのは『境部さん』が最初に出てくる話(タイトル忘れた)で、この世界ではディスプレイの薄型化が進み、ほとんど紙と変わらない薄さのものが広く普及している(というより用途として紙(主に植物の繊維を原料とする)をほとんど置換している)。紙(主に植物の繊維を原料とする)と区別するために超薄型ディスプレイのほうは帋と表記される。ここで境部さんが発した重要な問いかけは「帋に描かれた文字は本当にそこに"ある"と言えるのか」というもの...

誰もわかってくれない 傷つかないための心理学

 誰もわかってくれない 傷つかないための心理学 ハイディ・グラント・ハルヴァーソン/高橋由美子訳 (No One Understand You, And What To Do Abou It   Heidi Grant Halvorson) われわれのコミュニケーションにおいては相手に意図した通りのメッセージが伝わるとは限らない、むしろ状況によっては意図しない方向に受け取られがちになったりする。そういったことはなぜ生じるのか、それを避けたいのであればどうするのがよいのか、という話。 少し厳しめに書くと、全体的に「〇〇という事例がありますが、あなたにも同様の経験がありますよね。これには✕✕という心理が働いて▲▲というプロセスを経てそういうことが起こってしまうんです。これは■■の実験でも裏付けられています!」という論調で、要領を得ないということはないが"ふわっと"している感じは否めなかった。誤解されないために、相手のバイアスを緩和するためにどうすることが必要か、ということも書かれているがそこもかなり抽象的に感じられた(これに関してはまあ、具体的で現実的で実体的な小手先の行動や言葉が万人に通じるほど人間の心理というのは単純なものではないということなのだろうが)。とはいえ、コミュニケーションスキルに乏しい私にとってはそんな抽象的でふわっとしたアドバイスさえも多少の参考となるものだった。 私たちが他者を判断するプロセスは二つの段階を経るという。第一フェーズが思い込みによる"自動的な"判断、第二フェーズが(自動的でなく、)努力を必要とする"最初の印象に修正を加えていく"判断だそうだ。つまり、自分が判断される側のときはまず相手が極端な思い込みをしないようにすること、そのうえで悪い印象を与えたときは相手がその判断を修正するよう仕向ける必要性がある。 人間というのは本当に知能をよく発達させた動物だが、それでもこの第一フェーズのように、些細な思考・判断に割くリソースを出し惜しみしているのは不思議なものだと思う。むしろ、些細なことについては自動化してしまったからこその発達なのかもしれないが。 なかなかまとまりのない文になってしまったが、まあ、他人からは自分は自分が思うようには見えていない、ということを意識して生きていきたいという...

批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義-

 批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義- 廣野由美子 批評理論についての書物は数多くあるが、読み方の実例をとおして、小説とは何かという問題に迫ったものは少ない。本書ではまず、「小説技法篇」で、小説はいかなるテクニックを使って書かれるのかを明示する。続いて「批評理論篇」では、有力な作品分析の方法論を平易に解説した。技法と理論の双方に通じることによって、作品理解はさらに深まるだろう。多様な問題を含んだ小説『フランケンシュタイン』に議論を絞った。(「BOOK」データベースより) 先日読んだ 「小説読解入門-『ミドルマーチ』教養講義」 でも参考として挙げられていたため購入。前半の「小説技法篇」は「小説読解入門」にも同じパートがあるように、重なる部分も多かったが題材として扱うものが「フランケンシュタイン」となっており以前読んだことを追認しつつ楽しみながら読むことができた。 後半の「批評理論篇」では実際にフランケンシュタインに向けられた批評や、"文学作品に対してよく用いられるこのような批評の視点に立てばこう批評することができる"というように筆者が挙げる例を通して批評の手法を(そこまで深堀りはしないながらも)網羅的に学ぶような形となる。これまでの自分が読んできた作品について「〇〇についてはこういう見方してたな」とか「あれをこの論点から批評すると面白いかもな」などと考えながら読むのが面白かった。 小説や映画などが好きな人は読んでみて損はしないように思う。ちなみにフランケンシュタインを読んだことがなくても問題ない。私もフランケンシュタインという科学者が人造人間をつくってそいつに殺される、くらいのことしか知らなかった。

地方出身者の標準語での感情表現・感情発露

イメージ
なにかの調査報告のような仰々しいタイトルをつけたが単なる主観的な逡巡であることを断っておく。 私は地方出身者だ。そんな私にとって、思春期ごろまでは標準語というのは基本的にテレビや本、学校の教科書などで触れるものであって自分が話す言葉としては捉えていなかった。 私が生まれ育った地域周辺では、祖父母の世代においても学術的に研究されるようなレベル(youtubeなどで"方言"を調べると様々な音声が聞けるがその音声のようなレベル)で方言というものが色濃く残っているわけではなかったが、イントネーションやアクセントのちょっとした訛り、標準語的ではない語尾(ステレオタイプな例となるが関西地方で話される「~やで」、博多弁の「~たい」のような)は年代問わず浸透しており、それに関して私も例外ではなかった。ここではそういう言葉を「お国言葉」と呼ぶこととする。 私を含めた子どもたちははじめ、家庭で聞き馴染んだ(両親や祖父母が話す)お国言葉を話すが、小学校の中学年ごろには敬語を少しずつ学んでいき、教師や友だちの親などに対してはそれまで話していたものとは異なる言葉を話すようになる。とは言っても教師や友だちの親の多くもお国言葉の話者であり、子どもたちが話すのはお国言葉に標準語の敬語が入り混じった"ネオ敬語"であった。入り混じりの度合いは成長とともに変わっていき徐々に自然な標準語に近づいてはいくが、高校3年生になってもネオ敬語を話すような人間も少なくはなかった(私はどちらかといえば標準語に近いほうであったという自覚はあるがそれでも多少はお国言葉も混じってしまっていただろう)。 それからやがて私は大学進学に際し、生まれ育った地域を離れた。私は活字によく触れていたし、部活動や地域活動で目上の人と関わる機会も十分にあり、標準語は話せるつもりでいた。そして実際私はある程度うまくやったのだ。学校の先輩やアルバイト先の社員さんなどとは普通に話せていた(つもりだ)。しかし、地元を飛び出してみて初めて気づくことがあった。 私は標準語の"タメ語"を話したことがなかったのだ。同学年の人間と話すのが怖かった。 いつからそういう脳内の回路ができたのかはわからないが、私は相手に応じて"お国言葉"の程度を(はじめは意識していたのかもしれないが今と...

MLB ナショナル・リーグ ワイルドカード

イメージ
 メジャーリーグのレギュラーシーズン全日程が終了し、プレーオフが始まった。昨日はナショナル・リーグのワイルドカードがあった。 MLBのプレーオフのシステムは日本とは大きく異なる。二つのリーグにそれぞれ東・西・中の3地区があり、各チームはレギュラーシーズンでは地区での優勝を目指すことになる。地区優勝の3チームに加え一発勝負のワイルドカードと呼ばれる敗者復活戦を制したチームを含めた4チームでリーグ優勝を競う(図)。 昨日はナショナル・リーグのワイルドカードがあり、ロサンゼルス・ドジャースとセントルイス・カージナルスが戦った。ドジャースは昨季ワールドシリーズを制すなど、言わずと知れた強豪である。今年は僅差で地区優勝を逃したものの、ワイルドカードからのリーグ優勝・世界一を目指す。カージナルスは当初ワイルドカード圏内に入ることも難しいと思われていたがシーズン終盤に驚異の17連勝を記録するなど勢いに乗っているチームだ。 試合は世界最高峰のリーグのプレーオフらしく、最終盤までもつれる大接戦。両チームとも投手陣が踏ん張りを見せたが、1-1の9回裏にクリス・テイラーが2ランホームランを放ちドジャースが地区シリーズへの進出を決めた。ドジャースは地区シリーズではわずか1勝差でリーグ優勝を譲ったサンフランシスコ・ジャイアンツと対戦する。 このドジャースとジャイアンツは伝統的にライバル関係にあるチームとされながら、この2チームがプレーオフで対戦するのは史上初だという。今季ジャイアンツがシーズン107勝でドジャースは106勝。プレーオフで対戦する2チームの合計213勝は史上最多で、105勝以上をマークした2チームが対戦するのも初めてのことだという。この2チームのレギュラーシーズンの直接対決はジャイアンツが10勝、ドジャースが9勝。この地区シリーズでも激戦が予想され、非常に楽しみだ。

暑くない9月と崖

 皆様におかれてはこの9月を振り返ってどういう感想を抱くだろうか。 8月を振り返る記事では「9月も目の前だというのに猛暑日だった」と言ったがその割には、9月に入ってから暑い日があまり多くはなかったように思う。概して過ごしやすい日々だったように思う。たまにある暑さがまさしく"残暑"だと思えた(近年では9月の暑さは「こんなの残暑じゃなくてまだまだ"本格的な暑さ"だよ!!」という感じだったのだが)。 9月になって変わったことと言えば私の場合はまず就職活動のことをちゃんと考えるようになったということが挙げられる。周囲の様子を見聞きしたり先輩の話を聞く限りではまだまだ序の口といった程度の力の入れ具合だが、一応はスタートを切れたことそれ自体をまずは良しとしたいと思う。就職活動といえば大学生を悩ますイベントランキングで1位2位に食い込んでくるものであると思われるが、まだまだ走り出したばかりの自分にもその辛さの一端は見えてきたのでいつかはブログ記事にしたいと思う。 それから9月になってからブログにプロフィールページを作った。それからマシュマロのアカウントも作った。ブログのネタやお題、質問などいただけると投稿ペースの維持に役立ちそうなのでご協力いただけると嬉しい。 秋口になると毎年のように言っている気がするが、秋といえば米やサツマイモの収穫があり、栗もとれるしサンマも美味いから、食い物に負けないくらい実りの多い期間にしたいと思う次第である。

大学院生のメンタルヘルス

 「悲観することはない」とか「楽しんでいこうぜ」みたいな論調でブログ記事をいくつか書いているくせに、夜、寝付けず枕元のスマートフォンを手にとって「大学院生 うつ」などと検索している自分がたまにいる。 おそらくこれは単に私がマイナス思考人間だからというだけの話ではない。大学院生のメンタルヘルスの問題というのは近年、NatureやScienceなどといった権威ある学術誌で頻繁に取り沙汰されるトピックである(博士課程の学生に焦点を当てているケースが多いが修士課程の学生においても同じような指摘がある)。 https://www.nature.com/articles/nbt.4089 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jinbunxshakai/1/1/1_107/_article/-char/ja/ たとえば、2018年に nature biotechnology に掲載された記事によれば、カリフォルニア大学バークレー校が「生命科学分野の大学院生のうち43-46%が抑うつ状態にある」と報告しているようである。また、この記事の著者は、大学院生は一般の人と比べてうつ病や不安状態を経験する割合が6倍以上に上ると報告している(ただし、このアンケートは無作為抽出で行われたものではなく自己応募型であり、選択バイアスが生じた可能性があることに留意したい)。その原因としてはワークライフバランス(研究に供する時間・労力とプライベートとのバランス)、主任研究者との関係などが指摘されている。 また、下の「人文×社会」の論文でもワークライフバランス、指導教員との関係、キャリアパスの不安、経済的理由などが指摘されている。 ここからは私の体験から抑うつ状態や不安感情が生まれる原因を考えてみたい。 ---- ワークライフバランスについて言えば、(研究分野によって差異は大きそうだが)たしかにコアタイムによって平日はほとんど拘束され、学部生のころと比べると自由な時間はなかなかとれない。また、稀に21時や22時まで残らざるを得なくなることもある。忙しさには波があって、ほとんど一日中手を動かしているような日もあれば、あまりやることがない日もある(そういうときは関連分野の論文を読めという話なのだろうが)。正直にいうとあまりやることがないにも関わらず、コアタイムに拘...

追想五断章

 追想五断章 米澤穂信 大学を休学し、伯父の古書店に居候する菅生芳光は、ある女性から、死んだ父親が書いた五つの「結末のない物語」を探して欲しい、という依頼を受ける。調査を進めるうちに、故人が20年以上前の未解決事件「アントワープの銃声」の容疑者だったことがわかり―。(Amazon、「商品の説明」より) この本の紹介を書くとはいいながらなかなか筆…というよりはキーボードを叩く指が進まず、遅くなってしまった。先日読み返してみたので簡単にではあるがまとめてみたいと思う。 ひとつ感じるのは、誰しも背負っているものがあるということだ。芳光にも、芳光を居候させてくれている伯父の広一郎にも、物語の探索の依頼主である北里可南子にも、その亡き父である北里参吾にも。 当人の置かれている状況を知っていくにつれてその人の背負っているものが何かを想像することはできるが、相手は明確には口にしないし確信を得るには至らない。現実を描写するのに「彼は悲しい」「彼女は嬉しい」という文章はあり得ない。あっても「彼は悲しそう」「彼女は嬉しそう」だ。他者の感情を断定することはできない。 相手の感情を察して気遣ったり、優しくしたりすることはできるが、それは的外れですれ違うこともある。この物語は「参吾はなぜ物語を残したのか」「なぜ可南子は父の遺した物語を探すのか」が軸であるが、そういったすれ違いの物語でもある。 私たちは自分以外の人が何を感じているのか、何を考えているのかを想像することで人に優しくすることができるし、そういった気遣いが社会を成り立たせている部分もある。しかしながら、想像することがかえって失礼なことになる(「人の心情に土足で立ち入る」というような言い方もある…)場合もある。これらの境界は曖昧で地雷原を歩くようなものだったりもするのだが、そういった状況で自分はどうするか葛藤することができるのは一つの美徳だと私は思う。

サピエンス全史(上)

 サピエンス全史(上) 知人から借りた本であり、もう返却してしまったため本記事での細部の記述には誤りがあるかもしれないということを先に断っておく。 4,5年ほど前だろうか、それくらいのころにけっこう話題になっていた本。石器時代から現代にかけてのホモ・サピエンスの社会・生活について著者の専門である歴史学の観点から綴られている。 もっとも印象深かったのは農耕の功罪についての話である。狩猟採集生活は定常的に同じものを確保するという点では食糧確保の確実性は低かったが、逆に言えば今日の我々のようにイネやコムギ、イモなどの特定の作物に依存していなかった。凶作が起こってドミノ倒しのように飢餓に陥ることはなく、多様なものを食べている分、栄養状態も悪くなかったという。新生児の平均余命の数値は現代人よりも小さかったがある程度成長してしまえば今日の我々と比べて極端に短命だったわけでもないようだ。 一方農耕が始まって以降。コムギやイネなどの作物の栽培を始め、将来を見越して食糧を確保するようになった。凶作によって共倒れになるという危険もあったが、安定的に高エネルギーの食糧を確保できるようになったことは人口の増加に作用し、我々ホモ・サピエンスが地球上で75億を超える個体数を誇るまでになる礎となった。つまり、農耕がホモ・サピエンスの 種としての 繁栄をもたらした。 しかし農耕には負の側面も様々にあった。耕地を形成するにあたって森林を切り拓き野生動物の住処を奪った。増大し続ける人口を包容するために人々は田畑で働き続けることになった。(狩猟採集の社会にもヒトのヒエラルキーはあったものの)明確な身分というものを生み、奴隷というものが誕生した。特定の作物に依存することで多様なものを摂取しなくなりミネラルなどの栄養分が不足するようになった。などなど。 ここで問題にしたいのは種としての繁栄と個人の幸福・QOLというのは別個に考える必要があるということだ。農耕に従事する奴隷たちに「あなたたちが農耕を頑張ったおかげでホモ・サピエンスは将来地球上でもっとも繁栄を究めた種のひとつになりましたよ」と言っても何の慰めにもならないだろうし、現代ブラック企業でただ働き続けることに人生が忙殺されているサラリーマンに対しても同じことが言えるだろう。私たちは種の繁栄を目指しているのか、個人の幸福を高めることを目指している...

Mi 11 lite 5G 使用感想【2ヶ月経過】

イメージ
 Mi 11 lite 5G を使って2ヶ月が経過したので購入直後では気づかなかったことを書いていきたい。 --- まず、最近になってようやく付属のACアダプターとUSBケーブルを使って充電するようになった。33Wでの急速充電(Qualcomm® Quick Charge™ 3.0)に対応しているがこれがめちゃくちゃ早い。意識して時間を測ったことはないが、体感としては50%から100%まで充電するのに15分強くらいしかかからないように感じる。 あとはセカンドスペース機能。PCであれば同じハードウェアでもログインするユーザーが違えば異なるデスクトップが表示されるが、スマートフォンでそういうことができる機種はなかなかない。しかしながらXiaomiをはじめとする中華スマートフォンではそれができる機種があり、Mi 11 lite 5G もその一つだ。 使い道としては、まあ、あまり"よろしくないアプリ"はファーストスペース側には入れずにセカンドスペースに置いておくというのが真っ先に思い浮かぶが、そういったアングラ的な要素抜きにビジネスマンだと「プライベートと仕事の環境は分けておきたい」というようなニーズはあるのではないだろうか。ファーストスペースとセカンドスペースの切り替えもかなりスムーズで、たとえば指紋認証では割り当てる指によって起動するスペースを使い分けることができる(右手親指ならファースト、左手人差し指ならセカンド、といったように)。 以下の記事では同じくセカンドスペース機能を搭載する Mi 10 lite 5G が「浮気スマホ」として絶賛(?)されている。 令和新時代の「浮気スマホ」はシャオミでキマリ!MIUIのデュアルアプリとセカンドスペースが最強すぎる【本日発売 Mi 10 Lite 5G】 – すまほん!!  https://smhn.info/202009-xiaomi-uwaki-dual-apps-2nd-space カメラについて。購入直後はあまり感じなかったのだが、2ヶ月以上使ってきて(最近のスマホはもっぱらそうなのだろうが)コンピュテーショナル・フォトグラフィー感がかなり強いと思う。良く言えば鮮やかで画になる。悪く言えばツクリモノっぽさを感じる。以前使っていたAQUOS R2 compact はもう少し写実的--悪く言えば地味--...

愛と幻想のファシズム

 愛と幻想のファシズム 村上龍 --- 激動する1990年、世界経済は恐慌へ突入。日本は未曽有の危機を迎えた。サバイバリスト鈴原冬二をカリスマとする政治結社「狩猟社」のもとには、日本を代表する学者、官僚、そしてテロリストが結集。人々は彼らをファシストと呼んだが…。これはかつてない規模で描かれた衝撃の政治経済小説である。(Amazon、「商品の説明」より) --- 上下巻で1,000ページを超える大作。 スポイルドベア、すなわち個体間の競争に敗れて人里などに現れたクマは射殺してもいいことになっているとし、それは人間にも適用されるべきというのがトウジの哲学だ。システムをぶっ壊し、死ぬべき者が死に生きるべき者だけが生きるという狩猟世界のルールに戻すというのがトウジの目的だ。 私の生まれた世界が狩猟社会だったら、私は物心がつくまで生きることができなかったろうと思う。だから、私はトウジの思想を全面的に支持することはできない。しかし、システムがなければ生きていけないのにシステムにタダ乗りしようとする人間に対して憎悪に近い感情はある。 要するに私たちは生きるということを知らない。戦わなくても生きていけるから、地を這いつくばらなくても生きていけるから、生きるということを知らない。グリズリー(ヒグマ?)は水を飲むためだけに何時間もかけて斜面を下りて沢に向かうという話が作中に出てきたが、私たちはそういうことを知らない。そんな私たちだから腐敗というものが起こる。 イデオロギーめいた話になってきたが、これ以上続けるのはやめておこう。とにかく、私はこの作品を挑発と受け取った。システムのなかでのうのうと生きていていいのか、気づいたときにはスポイルされているぞ、と。誇りを失わず生きていくためには野生動物の生き方も見習わなければならない。

ボトルネック・追想五断章を取り戻した

 春に引っ越しをした。その際、荷物を整理していて「大して読み返しもしない本をずっと持ってるのなんか馬鹿馬鹿しいな」と思った( https://taihaikuukyo.blogspot.com/2021/03/blog-post_18.html )。そして厳選をした。篩にかけた。ところでこのように何かを選抜することを「篩にかける」と表現するとき、選び取るのは篩に残る側だろうか?篩の目をくぐった側だろうか?つまりは、選抜基準があまりにも厳しすぎたことを「篩の目が粗すぎた」と言うべきか「篩の目が細かすぎた」と言うべきか迷ったのだ。平たく言うと、私は本を処分しすぎた。 それからは電子書籍を使ってみることにした。Kindleはすごいと思う。昨今のAmazonの勢いを見る限り少なくとも私が生きている間はサービスが終了することはないように思える。少しではあるが、定価は紙の本よりも安い。セールもそこそこ頻繁にやっている。深夜だろうが早朝だろうが読みたいと思ったときに読みたいと思った本を買える。気に入った文章にマークをつけることもできる。辞書機能を使えばわからない単語の意味がすぐに出てくる。 しかし、私には合わなかった。長いお別れ(レイモンド・チャンドラー)、鍵のない夢を見る(辻村深月)、墓地を見おろす家(小池真理子)などを読んだが本当に時間がかかった。どうしても内容が頭に入ってこなかった。とても疲れた。「電子書籍は集中できない」と思っていたのだが本当は違っていて、一画面に表示されるエリアが紙の本の見開きより随分狭いせいで斜め読み・流し読みがしづらくて、必要以上に集中力が要求されるのが嫌だったのだと理解した。 一応補足しておくと私はスマートフォンの Kindle アプリ、PC の Kindle for PC を使っていた。スマートフォンやPCだとほかのアプリなどによって注意力が散漫になっていたということもあるだろう。だから Kindle Paperwhite などを使っていれば事情はまた違ったのかもしれない。 というわけで紙の本に回帰しようという気になったのだが、「読むのに疲れる、時間がかかる」というだけなら踏みとどまってもよかったかもしれない。ここで私は懺悔しよう。悔い改めよう。「大して読み返しもしないのにずっと持ってるなんてバカバカしい」。バカかお前は。私はここで認めよ...

勝負の前には掃除をする

 勝負の前には掃除をする。どうしてかは説明できないしそもそも考えたこともない。単にそういうことになっている。 中学生のころから、野球の試合の前には練習場の投球板とホームプレートをタワシで擦っていた。年季の入ったそれらは決してピカピカにはならなかった。真っ白にはならなかった。それでも砂塵に塗れたまま放置するよりはマシだと思った。当時の私には信仰があった。家に帰ればスパイクを磨いた。泥を落とし、湿らせたボロ雑巾で拭いて、コーティング剤を塗った。グラブにはあまり触れなかった。グラブに関しては普段から念入りに手入れしていたし、試合前にオイルを塗ったりするのはグラブが重くなってしまってかえってよくないという信仰があったからだ。 高校1年生のころの担任は「一に掃除、二に部活、三、四がなくて五に勉強」と言った。「テスト前に限って部屋の掃除に凝ってしまう」みたいな話があるが、私にとってはそれは必然だった。勝負の前には掃除をする。センター試験に行く前に家のトイレと自室を掃除した。ホテルではシーツを整えた(信じられないかもしれないが、田舎の人間にとってはセンター試験は泊りがけのイベントだ。そういう世界がある)。個別試験でも同様だった。 と、ここまで書いてみて気づくのは、逆説的に、いつも掃除をしっかりしている人はいつも勝負をしているのではないかということだ。いつも勝負に臨める人は好機を掴めるのではないか。 毎日掃除するか…

ツバメの雛を黙らせろ

 美しい物語性というのは誰もが手にできるものではない。誰もが美しい夢を見続けられるわけではない。夢から醒めてしまった大多数の人には、生活があるだけだ。地味で、泥臭く、時に血腥い。そんな暮らしがあるだけだ。 そんな暮らしは御免だ? 少し考えてみるといい。本当は、夢を見ていた間だって私たち大多数の凡人には最初から物語なんて用意されていなかった。美しい物語はいつだって後付けだ。退屈な毎日が過ぎ去ったあとに、後付けで美しい物語が与えられる、あなたもそんな生活をしてきたはずだ。 私はもうXX歳だが大人になるということがどういうことなのか未だにわからない。ただ、もしかすると後付けの物語を自分で付加できるのが大人でそれができないのが子どもなのかもしれないと思う。 誰だって心の中にツバメの雛を飼っている。雛は口を開いて、ピイピイ喚いて、親鳥が虫を運んでくるのを待っている。雛にコントロール権を奪われている人もいる。ちゃんと自ら親鳥の役目を果たして、心の中のツバメの雛を黙らせられるのが大人なんじゃないか。口を開いていれば与えられると思っていないで、自ら物語を紡げ。 的なね?

徒然九月

 無能で、多額の奨学金を借りていて、友だちがおらず、まあとにかくどうしようもない。 そんな私ではあるが、2023年の3月がモラトリアム延長の限度になりそうだ。つまりは、そろそろ就職活動をしなければならない。 自称するのは少しダサい気もするのだが、私は自分のことを根無し草だと思っていた。最初に根を張ったところを飛び出さざるを得なかったのだが、一度飛び出してしまえばもうどこにいようが同じだと思った。さすがに世界中どこでもとは言わないが、日本国内ならどこに行かされてもよかった。したがって就職について考えたとき、勤務地の希望というのは特になかった。強いて言えば東京以外がいいと思ったが、北海道でも青森でも沖縄でも鳥取でも島根でも高知でもどこでもよかった。 しかし、この期に及んでその考えが変わりつつある。そんな9月です。

異常な8月

イメージ
 今年の8月は異常だった。 アレの影響という点では昨年も異常だった。しかし、この2021年の8月はほんとうに存在したのだろうかというほどの異常さだった。とまでいくと言い過ぎかもしれないが、今月が8月だったというのは嘘ではないだろうかと思う。 帰省回顧録でも触れたがとにかく雨が降った。半年分とか一年分の雨が3日そこらで降って、大きな人的被害・経済的損害が起こった地域もあった。全国的な雨の傾向は8月の中旬すぎまで続いた。梅雨が一ヶ月延びたのかと思った。 そして先週あたりに"梅雨明け"。さすがにクマゼミやアブラゼミはもうあまり鳴いておらず、ツクツクボウシが主役になったりしてはいるが、気温で言えば夏真っ盛りという感じになった。ついでに夏の甲子園は昨日まで続いていた。 もう9月も目の前だというのに昨日はかき氷を食べに行った。9月も目の前だというのにアロハシャツを着ていた。9月も目の前だというのに猛暑日だった。かき氷を食べることもアロハシャツを着ることも決して"季節外れ"ではないようだった。 10年も経てばきっとほとんど覚えていない。5年後や3年後ならこの8月をどう振り返るのだろうか。21時を過ぎても高校野球の試合が続いていた8月。甲子園の決勝が29日だった8月。いくら異常だと言ってもいずれはすべて忘却の彼方なのだろうか。私が覚えているのは14歳と17歳の夏だけだ。 想い出は遠くの日々

フリマサイトなどによって買い物の心理的ハードルが下がっているという話

 昨日の Nebule Capsule を買ったという記事では最後に「使わなくなったら売ればいい」として締めた。この記事を読み返してみて、無意識のうちに買う前から「あまり気に入らなかったら売ればいいか」と思っている自分がいることに気づいた。 このモバイルプロジェクターの買い物に限った話ではない。7月のはじめに Xiaomi の Mi 11 lite 5G を買ったという話もしたが、そこでも、その当時メインで使っていた端末を売ることを前提として購入を決断した(結果的にちゃんと20,000円ほどで売れた)。今年の3月ごろ出費がかさんだ時期にも収支のバランスをとろうと、プレイ頻度が下がっていた Nintendo Switch を売った。同じころ Google Home mini も売った。 背景にはフリマサイト・ネットオークションなどが一般化したということがあるように思う。もちろんそれ以前から、古くは本の買い取り、そしてゲームや携帯電話などの買い取りといった店舗型のサービスはあったが、どのくらいの値段で売れるのかという情報は当たり前のように得られるものではなかったように思う。個人対企業という構図では買取価格への納得感もあまりなかったのではないかと思う。どの会社とは言わないが、本の買い取りではクソみたいな値段をつけて買い取る会社はある種われわれの共通認識というかネタになっている(大量の本をとにかく手っ取り早く処分したい、というときにはありがたいと思えるのだが)。 それに比べてメルカリやヤフオク、ラクマなどでは同じ商品が過去にどのくらいの値段で売れたのかという取引の情報が溢れているし、メルカリのアプリでは値段を設定する際に「XX円~ZZ円だと売れやすい」みたいなサジェッションが表示される。こういう情報を頭の中に入れておくと「仮に1年使ってから手放すとしてそのころには○円くらいで売れるか、そうすると実質○円か」という計算をしてから買うかどうかを考える。売るという手段があるのとないのとでは購入に至る心理的ハードルがけっこう違ってくるのではないだろうか。 いわゆる転売ヤーの買い占めが社会問題化し、さらにそれに対してフリマ事業者が施す規制も甘いのではないかという指摘もある。私個人としても、「使うつもりもない新品をたくさん購入して売る」という行為、「買い占めによって釣り上がった...

Nebula Capsule を買った

 Nebula Capsule を買った。モバイルバッテリーなどでおなじみの Anker 製のモバイルプロジェクター。Android 7.1 搭載。2018年に発売された製品と、少し古め。フリマサイトで未使用品を約2.6万円で購入。 有線での映像の入力としては HDMI と USB が使えるようだ。USB は充電用でもある(HDMI のほうは試してみたが USB のほうは試していない。端子が USB type-C ではなく Micro USB なのが少し残念)。Bluetooth接続にも対応している。また、Android を搭載しており、Wi-Fiに接続してNebula用にカスタマイズされたアプリケーションからAmazonプライムビデオや Netflix、youtube などの映像を視聴することもできる。Miracast(?)を使って同一ネットワーク上のスマートフォンやPCの画面を無線でミラーリングすることもできる。 搭載OSが Android 7.1 と若干古めなのでそう遠くないうちにアプリケーションの対応は終わるかもしれないが、HDMI 入力ができるのでプロジェクターとしてはそれ以降も使える(その場合は"モバイル"としての部分はかなり損なわれるが)。 そもそも買った動機としては今まで映像作品を主にスマホで見ていたから。テレビを持っていなかったから。いや、今の部屋に引っ越してくるまでは一応テレビは持っていたが、14インチ?くらいと小さめだったし、Nintendo Switch をテレビモードで使う以外にはあまり活用していなかった。スマホやラップトップPCで映画などを見るのはなんだか味気ない。でもテレビは見ないんだから大型テレビを買うのは費用に見合わない気がする。そう思うと3万円未満でプロジェクターを買うのはけっこういい選択肢だと思った。 "モバイル"プロジェクターなのでバッテリーを内蔵しており、電源に接続していなくても使うことができる。公称では動画再生時間はローカルコンテンツ再生時最大約4時間、Wi-Fi利用時で最大約3時間とのこと。映画を1本か2本見られるくらい。単にBluetoothスピーカーとしても使うことができ、その場合再生時間は約30時間。 プロジェクターとしては気になるのは輝度だが、最大100ルーメンとのこと。そ...

【書評】ラブカは静かに弓を持つ

 ラブカは静かに弓を持つ 小説すばるで連載していた「ラブカは静かに弓を持つ」が9月号で完結した。 音楽著作権管理団体である全著連(われわれの知るところのJASRACに相当する)の職員の橘は、上司に命じられミカサ音楽教室に生徒として通い、教室で著作権が及ぶ楽曲が演奏されている証拠を集めることとなる。橘はチェロを習うことになるが、講師やほかの生徒と親睦を深めるうちに「スパイとしての自分」と「生徒としての自分」との間で板挟みになる。 ラブカはいわゆる深海ザメの一種である。この種は胎生で、(深海に生息しており生態があまりわかっていないため)人工飼育が難しく、正確な測定はなされていないものの、妊娠期間は脊椎動物中最長の約3.5年と見積もられている。作中では「この長い妊娠期間をもつ生物を長期間潜入するスパイと重ねたスパイ映画がある」と描写され(この映画の劇中曲をつくった人は有名なチェロ曲も書いている、みたいな流れでこの話が出てきたのだと思う)、橘もまたそれと自分とを重ね合わせる。「弓を持つ」は言うまでもなくチェロを弾く弓を手に取るという意味だろう。 橘の葛藤~結末までは"順当に話が進んだ"と感じる。逆に言えばひねりがないと感じる人もいるかもしれないが、個人的には「この作品はこれでいいのだ」と思った。

継続的にブログを書くには

 近年まれに見る雨続きで梅雨が例年より1ヶ月ほども長引いているようなこのごろであるが、いかがお過ごしだろうか。 今日はネタがないため、これまでの経験上どういうときに記事を書くことができているのか、今後どうしていけば継続的に書くことができるのかを考えていきたい。 まずパッと思い浮かぶ方針として、本や映画などを読んだり見たりして、感想を書くというものがある。細部にこだわらなければ、記事の本数稼ぎにかなり有用だろう。しかし、内容を深めたいとするとなかなか難しいところがある。そもそも感想を書くというのは難しいことだ。先日感想を書いた「小説読解入門」でも似たことが述べられていたのだが、物語から多くのことを拾い上げるには知性と教養が必要になる。無理に文字数を増やそうとしてあれやこれやを書いていくと、自分の知性と教養のなさを露呈するかもしれない。これは恥ずかしい。 また、なにかを評論する際、ときにはある程度厳しい態度で批判的に論ずる必要があるのではないかと私は思っている。そして、そういうときこそ特に無教養を露呈しやすいだろう。これまでの私の書評の記事を振り返ってみると、ほとんど好意的な書き方をしていることがわかる。批評する力を養うために「小説読解入門」の著者が2005年に著した「批評理論入門」( https://www.amazon.co.jp/dp/4121017900/ )も読んでみようかと思っている。 また、一時期、Yahoo!きっずの「今日は何の日」を参照して、それについていろいろ書くという試みもしていた。しかし、文字数を稼ぐことも、濃い内容にすることもなかなか難しかった。また、過去の記事をしっかり管理していないと数年もすればどこかで必ず内容の重複が起きるだろう。そういった意味でこの方法はあまり得策ではない気がしている。 もうひとつの軸として日記のように日々の出来事を綴るというやり方もある。私のブログでは「よしなしごと」のラベルの記事が部分的にそれをカバーしている。これの難しいところはそう毎日のように印象的な出来事が起こるわけではないという点だ。しかし、逆に考えてみると何もない毎日が続くのを防ぐためにそういうやり方があるのだとも思える。Youtuberを例にとって考えるとわかりやすいが、普通に過ごしていて面白い動画なんて当たり前のように撮れるわけではない。だからこ...

帰省回顧録2021夏

 先日、盆の帰省をした。最後に実家に帰ったのは2019年の年末から2020年の年初にかけてであったから、実に1年と7ヶ月以上実家に帰っていなかった。新型コロナウイルスのパンデミックのさなか、帰省していいのか迷いはしたが、自分が一回目のワクチン接種を受けており、両親も祖父母も二回のワクチン接種を済ませていることから久しぶりに実家に帰るに至った。 お盆期間中、日本列島には前線が停滞し、多くの地域で雨続きとなった。私の実家周辺も例外ではなく、雨のせいか、寂れた過疎の街が以前にも増して閑散としているように思えた。バスを降りてしばらく待つと母が迎えに来た。私が帰らない間に我が家では車が買い替えられていた。20万km以上走ったというミニバンはお役御免となり、新たにハッチバックセダンが迎え入れられていた。見慣れぬ車に乗るのは変な気分だった。少年野球をしていたころ、大会や練習試合に向かうためにチームメイトの親の車に乗ったときの緊張感を思い出した。最近の車は座席の調節やパーキングブレーキが電動なのだと知った。 車から見える街の景色は代わり映えしなかった。中心部と言えるエリアでは銀行やスーパー、ガソリンスタンド、ホームセンターなど現代において健康で文化的な最低限度の生活を営むために不可欠な施設が、ボロボロになりながら、あるいは小さく建て替えられてこじんまりとしながら、そこに存在していることそれ自体が目的であるかのように、なんとなく構えていた。中心部を抜けると住居は田や畑の間にまばらにあって、アスファルトは見るからに古くて、いくつか立っている個人商店や飲食店を示す錆びたり剥げたりした看板が賑やかしになるどころか寂しさを増幅させていた。 私の家は田園地帯のさらに向こうだ。山を切り開いた道を行かねばならぬ。山道といってもさすがに舗装はそこそこ綺麗にされているし、道幅もそれなりにあるし、ヘアピンカーブなんかもない。雨が降り続いただけでなく、風も強い日だった。道には木の枝葉が多く落ちていたし、竹が道のほうに傾いてせり出していたりもした。そういった道を3kmほど行き、家に着いた。 我が家では2019年秋ごろから犬を飼い始めていたが、2年近く寄り付かなかった私は異質で怪しい存在と見做されたようで、警戒されかなり吠えられた。私の滞在中、近所のおばあさんが一度訪ねてきたがそのときも吠えまくっていた。失礼...

【書評】本と鍵の季節

  本と鍵の季節 米澤穂信 高校二年で図書委員の堀川が同じ図書委員で知り合った松倉とともに放課後の図書室に持ち込まれる謎を解こうと挑む、という形式。 六篇の短編となっているが、すべて地続きになっていて、(もう一度読むとしたら)それぞれの謎解きを通して現れる登場人物、とりわけ堀川と松倉の人柄には一層注目したいところ。 タイトルが示す通り、この物語では本と鍵が象徴的なものとなっている。たとえば、堀川と松倉が同じ図書委員という縁で知り合った点は、本によって二人は結びつけられたと言えるだろう(ふたりとも本はそれなりに読むものの読書家というほどではないらしいが)。また、二人が関わる謎にも本と鍵が関わってくるものが多い。 (以下、ネタバレというほどではないがこの本に興味を持った人にとっては興醒めになるかもしれないため注意) 「鍵」について少しこじつけ的な深読みをしてみると、これはもちろん物理的に金庫だとかロッカーの鍵を開けるという意味でも物語に関わってくるが、人のプライベートに踏み込むのも鍵を開けるようなものかもしれないと思えてくる。謎が持ち込まれるということはそれについて悩んでいる人がいるということだ。しかしながら、その謎を誰かに解いてほしいと思う一方で、それを解くために必要なピースとして個人の事情を詳らかに明かすことには抵抗があるという人も少なくない。また、金庫の中にあるものや、謎解きの手がかりとなる物はなにかとても"個人的な"物であるかもしれない。少しずつ答えに近づくなかで、依頼者の隠している個人の事情に勘付いたときに「鍵」を開けるのか否か。そういう視点を持ってもう一度読んで見るのもいいかもしれない。 "爽やかでほんのりビター"と宣伝される本書であるが、私個人としてはほんのりビターどころかかなりビターだと感じた。同じ著者の「ボトルネック」や「追想五断章」が好きという人は好意的に読めるのではないかと思う。

【書評】小説読解入門

イメージ
  小説読解入門 廣野由美子著 19世紀英国の地方都市を舞台としたジョージ・エリオットの傑作長編『ミドルマーチ』を実例に、「小説技法篇」で作家の用いるテクニックを解説。続く「小説読解篇」では、歴史や宗教、科学、芸術などの<教養>を深める11の着眼点で、小説の愉しみ方を伝授する。(帯の宣伝文より) ミドルマーチは「十九世紀を舞台にさまざまな人間ドラマが絡み合う社会を描いた絵巻のような作品」であり、地方都市ミドルマーチ近郊に住むさまざまな社会階級の人の視点を通して、(「小説技法篇」でいうところの"パノラマ"を多分に取り入れて)社会の動きや人々の生活というものを描いている。私もこれを読んだことはないのだが、本書ではあらすじがあるので、読んだことのない人も安心して手に取ってほしい。 「小説技法篇」で印象的だったのは「ミステリー/サスペンス/サプライズ」について言及している部分だ。ここでは「小説の諸相」という1927年にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジでエドワード・モーガン・フォースターが行った講義をまとめた小説論集(wikipediaより)を引きながらストーリーとプロットの違いを説明している。 ストーリーとは、出来事を起こった「時間順」に並べた物語内容。他方、プロットとは、物語が語られる順に出来事を再編成したものを指す。 私たちはストーリーならば「それから?」と尋ね、プロットならば「なぜ?」と問う。 そして、 フォースターによれば、優れた小説とは、たんに次がどうなるかという読者の原始的な好奇心のみを刺激する「ストーリー」ではなく、出来事の配列を組み替えることによって深い意味合いを与え、読者に知性と記憶力を要求する高度な「プロット」の形態を備えたものである。 としている。 こうして説明されてみれば、自分の読書経験に照らしてもこれは非常に納得のいく説明でわかりやすいのだが、このように意識して小説を読んだことがあまりなかったため、感じるところは多かった。優れた小説というのはプロットの形態を備えている以上、ジャンルを問わず「ミステリー性」・「サスペンス性」を帯びている。こういった視点を持って意識的に小説を読んでいくとこれまでとは違った楽しみを見つけることができるのではないかと思った。 「小説読解篇」では「心理」のパートが特に印象的だった。この...

街録ch 上祐史浩氏

 街録ch というYouTubeチャンネルがある。一見したところ、会議室などではなく、あえて街頭を選んで有名人やアウトロー界隈の関係者にインタビューをする、というチャンネルのようで、それなりのチャンネル登録者と再生数をもつようだった。 そのチャンネルの動画に先日、オウム真理教元幹部である上祐史浩氏に取材をしたものがアップロードされており、興味深く拝見した。 このブログを見るような人には説明は不要かもしれないが、簡単に説明をしておく。彼は教団の幹部クラスであったが、教団が松本サリン事件や地下鉄サリン事件などの重大事件を起こす以前からロシア支部の支部長としてロシアに出向していたことから重大犯罪事件では起訴されず、懲役3年の実刑判決を受け収監、1999年末に出所。その後はオウム真理教の後継団体である「アレフ」の代表を務めたのち、団体内の派閥対立により別団体として独立し、現在「ひかりの輪」の代表を務めている。 動画を見ていてすぐ気づくのが、彼は取材者の質問に対して長く考えこむことなく、すぐに返答している点であり、また、過去の出来事について語るとき「あれは○年の○月から○月にかけてのことで、その○年前には~があったように~~という社会情勢だったことから」といった風に、時系列が彼の頭のなかでかなり整理されているような印象を受けた。もちろん取材を受けるに際して事前に何かしらの方法で記録を振り返ったりしていた可能性もあるし、証言のそれぞれについて私が文献等にあたって検証しているわけではないから正確性についてはある程度割り引いて考える必要はあるかもしれないが、それでも私のような凡俗にとっては彼の受け答えははっきり言って普通ではなかった。 動画は、生い立ち~入信~逮捕~その後の活動といったように概ね時系列に沿って話を展開する形となっているが、生い立ち~逮捕にかけての感想は省略する。 現在の活動について。現在、彼は宗教団体ひかりの輪の代表を務めており、活動内容は「仏教哲学や心理学を学ぶセミナーを開講したり、寺社仏閣などのパワースポットなどを巡るツアーの主催」などで、有り体に言えば「サークルのようなもの」だと彼は語る(中立性を期すために記述するが、Wikipediaではひかりの輪について「公安調査庁は、麻原の影響力を払拭したかのように装うオウム真理教の後継団体であり、麻原の死刑が執...

無.txt

 嫌なニュース、そしてそれに対する嫌な反応などが目に入ってしまう(自らわざわざ見に行っているという面も否定はできない)。私にとっては新型コロナウイルス感染症による社会の変化と東京オリンピックによってヒトのもつ獣性が浮き彫りになった感じがする。これらの出来事によって獣性が高まったというよりは、私が社会や世間と呼ばれるものに対してこれまで好意的なーー自分に厳しい言い方をするのならば、深みがなく軽薄なーー見方を持っていたというのが妥当だろう。自分をできた人間であるとは評さないが、倫理や道徳といったものに関心を持ち、自分の行動を俯瞰して見るように努めてはいたつもりだ。そして愚かにも、世の多くの人が同じような姿勢を持って規範ある社会をつくっているのだと信じ込んでいた。実際には、私が思っていた以上に人は獣性を剥き出しにして生きているようである。意識してか無意識にか、人は私の何倍何十倍も狡猾に生きている。このまま規範を大事に生きていても私は彼らに搾り取られ続け、気づいたときには何も残らなくなっているのだろう。そういうことなら。私も今まで信じていたルールを打ち捨てて、そちらと同じルールでやらせてもらう。大きく出遅れたぶん、同じルールで戦っても打ち勝っていくのは難しいのかもしれない。しかし、それでも、最後まで今の戦いを続け、骨の髄まで搾られることを想像すると、そこにも耐えていかなければならないと思う。もっともらしく飼い馴らされてきたが、噛み付いてやりたい。

 わたしが考えているのはね、人は事実に傷つけられるのか主観に傷つけられるのかって話ですよ。わたしの父が殺人を犯したとしましょう。そして誰かがこう言うわけです。「おい、殺人犯の息子!」あるいは「おい、クソ野郎の息子!」。父が殺人犯というのは事実ですし、わたしはその息子です。じゃあクソ野郎というのはどうか。仮に今わたしの父がほんとうに殺人を犯したらわたしはおそらく彼のことをクソ野郎と思うでしょう。しかしですよ?殺人犯だからといってクソ野郎だとは限らないという考えを持つ人もごくわずかかもしれませんがいるはずですよ。過去の人間社会、未来の人間社会だとその割合が多かった/多い可能性もあるわけです。人類全体で「殺人犯は皆クソ野郎である」というコンセンサスがとれていない以上それは事実とは言えないでしょう。「殺人犯の息子」と呼ばれるのと「クソ野郎の息子」と呼ばれるの、どちらがわたしを傷つけるでしょうか。人びとのなかにはさらに妄想を働かせてわたし自身を「クソ野郎」と呼んだりするのかもしれません。なにが言いたいのか自分でもわからなくなってきましたよ。要するにですね、主観に振り回されるのをやめたいわけです。ほかのみんなにも主観に振り回されないでほしいんです。 でも人の話を常に事実と主観に分けて聞くのって難しそうじゃないですか。きっと疲れます。思考力が鈍ってるときには主観と事実を混同するかもしれない。だとすればこういうのはどうでしょう。客観的事実なら日本語で喋ってよし。少しでも主観が入るような言葉は英語によって紡がれなければならない。もちろん子どもにはそれは強要しませんよ。15歳くらいからにしましょうか。いいでしょう?みんな必死で英語を勉強しますよ。これでみんなが望むように、日本人の英語力も飛躍的に向上するんじゃないですか。主観を発信するとき、いったん立ち止まって思考が介在するようになる。中学レベルの英語ができない残念な頭の方には主観の発信をやめてもらいましょうか。 I think this is a good way to improve English skill and communication skill of Japanese people.  skill に s をつけるべきかわかりませんね。あとof Japanese people じゃなくて for Ja...

糖尿病に気をつけねばならない

 リアルゴールドを一缶買うだけで、 Coke ON のスタンプが3つも貯まるなんて夢のような話だ。つまり、キャンペーンなどをまったく意識せずにCoke ON を利用していると15本の飲み物を買ってようやく1本無料クーポンがもらえるところを、飲料の種類はリアルゴールドに限定されてしまうものの、今に限って言えば5本買って1本無料クーポンを手に入れることができる。小学館万歳!!平和の祭典万歳!! 私はといえば、大した理由は見当たらないが、一昨日かその前日あたりから夜の消灯後なかなか寝付けずにいる。おかげで昨日はブラックコーヒーの260(?)ml缶を2缶買い、そのうえでモンスターエナジーM3(160ml缶で、カフェインやアルギニンなどといった成分が濃いものだ)に初めて手を出した。エナジードリンクはときどき買う程度の自分としては、これだけの分量にカフェインが150mg入っているものはおそらく初めてのことだ。今までなんとなく忌避していたのだが、味としては大きい缶のものと大差なかった。そして今日も買った。 ところで私はフリーシュガーの摂取量をそれなりに意識している。WHOの推奨するところではフリーシュガーで摂取するエネルギーは一日の総摂取エネルギーの5%未満に抑えるべきとのことであり、これは砂糖およそ25gに相当する。モンスターエナジーM3の成分表示を見る限りでは1本あたり糖質は17gのようだ。定番の355ml缶では糖質は1本あたり40g以上(公式サイトで成分を確認することができなかったため第三者サイトの情報であることをお詫びする)だというから、糖分は摂りたくないがカフェインが摂りたい人にはM3は良いのだろう。ほかに清涼飲料水を飲んだりしなければ今日のフリーシュガー摂取量も25g以内にはなるだろう、上出来だ。 いや待てよ・・・・・・??? 今朝、朝のダルさとスタンプ欲に負けて自販機でリアルゴールドを買っていたよな??? そしてコカ・コーラのサイトでリアルゴールドの成分を確認する。100mlあたり糖質14g、内容量190ml・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 糖尿病にならないように気をつけようと思った。 それ以前に、今日はちゃんと寝付いて...

長いお別れ

 レイモンド・チャンドラー。 清水俊二訳。 そろそろハードボイルドに磨きをかけようと古典的なハードボイルド小説に手を出した。そして自分はハードボイルドにはなり得ないと悟った。 まず登場人物の名前を憶えられない。海外文学を読むときにありがちなことだが、カタカナで記され、音としてもあまり馴染みのない名前にはなかなか慣れない。まあ国内作家の作品でも登場人物の名前が日本風でない(こういう先入観というか固定観念が入った言い方にケチがつく時代ではありますが。)ときはそれがすんなり入ってこない。こんなやつがハードボイルドになれるわけがないのだ。 ストーリーについてはあまり言及する点がない。読んでいて「ああ、確かに昔の探偵小説だな」と思ったくらいだ。ただ、ストーリーと"Long Good Bye"というタイトルとが頭の中で符号したとき、妙なスッキリ感というかそういった類の味わいがあった。 あとこれは訳の問題なのだが、たまにおそらく助詞が抜けているであろう文があって不満だった。こんな些細なことに不満を抱くやつがハードボイルドになれるわけがないのだ。

少年の日の思い出

 古い家に住んでいた。私が小学生の当時すでに築90年近かったと聞いている。母屋と離れがあって、母屋がもともとL字の形をしていた。そこに短い廊下で離れをつなげたものだから、全体としてはコの字に近い形をしていた。コの字の内側は庭になっていた。コの字の家を設計するとき、誰だってそうするものだ。"コ"の辺がない部分は生け垣になっていた。つまり、家と生け垣に囲まれた庭があった。 庭にはザクロの木があった。椿があった。躑躅があった。松があった。サルスベリがあった。かつて池だったらしい窪みがあった(大雨が降って水がたまると確かにそこはかつて池であったろうと思われた)。 私はよく庭に面した縁側でごろ寝をしていた。説明するまでもないだろうが夏は蝉の声が聞こえた。たまに吹く風は木々の葉をかさかさと揺らした。ついでに風鈴も揺れた。そうして退屈な夏の日の午後が過ぎるのを待った。寝返りをうてば床板は軋んだ。 そしていつの間にか眠っていた。目を覚まさせたのはヒグラシの声だ。当時からヒグラシの声を聞くと胸がざわついた。そのざわつきの正体たる感情を説明する言葉を持たなかった(し、今でもやはりそれは説明できないものだ)。私が眠っている間に、友だちの家に遊びに行っていた兄が帰ってきていた。外はまだ明るい。兄は私をキャッチボールに誘った。私はよく兄のボールを捕り損ねて後ろへ逸らした。少し暗くなってきたころ、逸らしたボールをとりにかけ寄った木の根元で巣から出てきた蝉の幼虫を見つけた。私はそれを優しく拾い上げて、家に持ち帰る。庭の木の根元に載せる。 夕食のメインディッシュは祖父が獲ってきたサザエの壺焼きだった。妹はサザエの"しっぽ"の部分が嫌いだと言って兄に食べさせた。私はところてんを啜り、たれが喉に入ってむせた。スイカを食べて夕食はお終いだ。蝉のもとへ向かう。 すでに半身が殻から抜けている。私は何かを思い出して父からデジタルカメラを借りる。2GBのSDカードが入っていて、有効画素数は200万。様々な角度から蝉を撮る。兄も、私も、妹もそれに釘付けになる。蝉の羽化は時間がかかる。いくら興味があっても動きが少ないと退屈する。そしてまた眠ってしまう。 目が覚めると蝉はすでに殻を脱いでしまって翅を乾かしている。やってしまった!!と私は思う。母は写真撮っておいたよ、と言って私に...

Googleスプレッドシートでカレンダー兼ふりかえりシートをつくる

イメージ
 (最近はダレてきてしまっているが)一日一日を振り返り、点数をつけるというキショ行為をしている。点数を縦軸に、日付を横軸にしてグラフを描いたりしても面白いよなと思っていたので記録にはGoogleスプレッドシートを使っている。シートの雛形を作ってしまえばそれを複製するだけなのだが、日付と曜日を手入力で埋めるのは面倒なので Google Apps Scipt を使ってみた。 自分はプログラミング?を生業にも趣味にもしてないので個人ブログなどを参考にしながらつぎはぎのようにつくったからプログラミングを生業や趣味にしている人からすれば見苦しいかもしれないが、ほんの少しでも誰かの役に立つかもしれないのでここに記しておく。 function insertSheet6Sample() { var today = new Date(); var day = today.getDate(); if(day == 15){ function getDate(){ var today = new Date(); today.setMonth(today.getMonth() + 1); // 現在の日時を取得 var out = Utilities.formatDate(today, "JST", "YYYYMM"); // 現在の日時から、月を算出 return out; // yymmという形の文字列を戻り値として返す } var today = new Date(); var day = today.getDate(); if(day = 15) var MyNewSheet = getDate(); var plusone = new Date(); plusone.setMonth(plusone.getMonth() + 1); var ss = SpreadsheetApp.getActiveSpreadsheet(); var templateSheet = ss.getSheetByName('master'); ss.insertSheet(MyNewSheet, {template: templateSheet}); var out1 = Util...

温故知新

小学校を卒業するとき、中学校を卒業するとき、高校を卒業するとき、必ずと言っていいほど式辞では「目まぐるしく移り変わる現代社会において君たちは~」だとか「この激動の時代にあって君たちに求められるのは~」といった話をされた。大学の入学式でもそういった話はあっただろう。 確かに、21世紀に入ってグローバル化は大きく進展したのだろう。格安航空会社によって少なくとも隣国の韓国や台湾はかなり身近な場所となった。東南アジアにもかなり安く行ける。外国語を勉強する機会もツールも増えた。海外の文化に触れる機会も格段に多くなっているに違いない。遠隔地の人とコミュニケーションをとるのもかなり簡単になった。携帯電話の普及、光回線インターネットの普及、そしてスマートフォン。1990年代からすれば想像もできなかったような変わりようで、それを10年や20年で成し遂げたのは確かに驚嘆に値する。 一方でこれは有名な話であるが、家庭用コンピュータの登場からおよそ10年の平成元年においてワープロ専用機のメーカーは概ね「ワープロは文章を書く機械として特化されているからパソコンに取り込まれずに残る」と考えていたという( https://dime.jp/genre/644604/ )。今思えば完全に的はずれな予想だが、我々はこれを笑うことはできない。こういったエピソードから得られる教訓は「昔の人は馬鹿だった」ではなく「そもそも我々は先を見通すのが下手」である。そんな私たちにとって、世界というのは 常に 「激動の時代」に思われるに違いない。 1945年の焼け野原となった東京で、20年後にオリンピックが開催されると考えることができた人がどれだけいただろうか。石油危機を、冷戦の終結を、ソ連の解体を10年20年前から予想していた人はどれだけいるだろうか。人類が農耕ばかり行っていた時代はいざしらず、国家・産業・科学が明確に打ち立てられて以降は世界は目まぐるしく変わり続けているに違いない。今だけが特別な時代というわけがない。 かなり脇道に逸れた。 「この激動の時代において君たちに求められるのは~」と語る校長やPTA会長は時代に適応する能力を私たちに求めていたのではなく、何かを求めていたとすれば「時代に適応する能力が必要という議論そのもの」だ。もしかするとそれを話すだけでインテリを気取れる、児童生徒を教育したと自己満足できる...

カメムシについて

 昨日、カメムシを踏んだ。 高校生のころ、カメムシが大量発生した年があった。高校の校舎にまで多数のカメムシが入ってきていた。耐えかねた私は500mlペットボトルに教室と近くの廊下にいるカメムシすべてを詰め込んだ。カメムシは密閉容器に入れられると自分のニオイで死ぬという。 翌朝、登校すると教室の窓際に置いていたはずのペットボトルがなぜか教卓の上にあった。 クッソ!!中谷め!!チクリやがったな!! 私は朝礼で絞られた。 子ども科学電話相談 質問まとめ( https://www.nhk.or.jp/radio/kodomoqmagazine/detail/20200331_05.html )より抜粋 ふでこさん: 「くさいにおいを出す昆虫は、自分でもそのにおいに気付いているのか?」が知りたくて、去年ここに電話してかからなかったので、自分でカメムシを捕まえていろんな虫にくさいのをかがせて調べてみたのですが、本当のところはよく分かりませんでした。 石井アナ: そうだったんだ。以前電話をかけてくれたのに、ごめんなさいね。それで自分でも調べてみた。でも分からない、ということですね。きょうは、しっかりと丸山先生に教えてもらいましょう。丸山先生、ふでこさんの質問、どうでしょうか。 丸山先生: 答えから言いますと、自分自身では分かっていないんだと思います。 ふでこさん: え? (中略) 丸山先生: カメムシのにおいって、すぐに気化する、成分の強い毒のようなものです。カメムシをたくさんせまいビニール袋に入れて、そのにおいをいっぱい出させると、中でカメムシが自分のにおいの毒で死んじゃうんだよね。体には刺激があるから、カメムシも恐らく少しは分かってるとは思います。 (中略) 石井アナ: ちなみに、ふでこさんはどんな実験をしてみたの? ふでこさん: カメムシをカプセルに入れて、綿棒でつついてくさいにおいを出させて、アリ、バッタ、カエルとかにかがせてみました。 石井アナ: そしたら? ふでこさん: 背骨のある動物はあまり反応しなかったけど、ちょっとだけ反応した虫とかもいました。 石井アナ: たとえば? ふでこさん: バッタは、口から赤い液が出ました。 ふでこさんの実験、いいと思います。

教師はクソほども役に立たないという話、ではなく、

 小学校5年生くらいの理科でメダカを飼育する授業があった。オスとメスのメダカを混泳させ、卵を採取し、実体顕微鏡で眺めたりした。 のちに、それを踏まえてヒトも受精卵から誕生するということも説明された。 しかし、ヒトとメダカは違う。ヒトのタマゴなど見たことがない。ではヒトの精子と卵子はどのようにして受精するのか。 好奇心旺盛な子どもは教師にその疑問をよくぶつけるようだが、僕はそういうタイプではなかったので、説明しないということは説明するまでもないのだろうと考えて「精子は空気中を移行して女の体に入る」と自分の中で結論づけた。 時は流れ、僕は中学生になった。小さい学校だったから縦のつながりもかなり強く、入学して早々に"悪い"先輩によってチ○コをマ○コに入れて精子が女の体に入ると教えられた。 教師にそれを教えられたかったかというとYESとは言えない(し、教える側としての苦労も想像に難くない)が、そんな不誠実な教え方をするくらいなら最初からメダカとヒトの生殖の話なんか教えないほうがいいだろ、と思った。 === 中学校で僕が入った部活のキャプテンはすごく有能だった。 「誰かが注意されたりアドバイスされたりしているとき、それは自分に言われていると思え」 と僕に教えてくれた。この考えは部活だけでなくいろいろな場面で役に立った。 === 僕の住んでいた地域には毎年夏に祭りがあった。小学生と中学生が担う出し物もあり、祭りが近づくと中学生が小学生に出し物の指導をするという形でそれは継承されていた。蚊取り線香をつけさせたり(今の子どもの中はマッチが使えない子がけっこういるらしい)、集会所の蛍光灯を取り替えさせたりと中学生は小学生にいろいろなことを教えた。 祭りを無事終えればその打ち上げもあった。バーベキューの焼き網を洗う時タワシがなかったらマツボックリを使えばいいとか、花火をするときは水を張ったバケツを用意しろとか、面倒くさいから酒に酔った大人に近づくなとか教えてくれたのも中学生だったし、ロケット花火は面白いけど民家──たとえそれが空き家でも──に撃ち込むのはやめておけと教えてくれたのも中学生だった。 === 教師はクソほども役に立たない、と言いたいのではない(おそらく)。ただ、僕たちには"中学の悪い先輩"が必要なのだという話だ。 === 僕は大学生に...

ハイスクール・ベースボールの呪い

 またこの季節になった。 あの日、僕はたしかにマウンドに立っていた。 たった1点をとるのが──いや、たった一人のランナーを出すことが、そして、たった一つのアウトをとることがこんなにも難しいことなのかと思った。昨日のことのようとは言わないが僕にとってまだまだ新しい記憶だ。 それでも、たしかに僕は1998年生まれで、あれは2016年のことで、そして今は2021年。もう5年も前のこと。5年もの間この呪いを祓うことができずにいる。 要するに、グラウンドを駆け回る高校生たちが憎たらしく、妬ましく、羨ましい。今後の人生であのとき以上になにかに本気で取り組むことはないだろう。あのときみたいに仲間と真正面からぶつかることもないだろう。たくさんの人の前で持てる力のすべてを発揮するような経験も二度とないだろう。でも「いい経験だった」なんて一言では片付けられない。片付けられるわけがない。口先では「未練はない」と言っても、長い間、もしかすると一生解消されないわだかまりを抱える。そんな仲間がまた増える。

Xiaomi Mi 11 lite 5G を買った

イメージ
 7月2日発売となった Xiaomi の新スマートフォン Mi 11 lite 5G を買った。 それまで使っていた AQUOS R2compact がかなり気に入っていた(し、しかも画面を割ってしまったので中古を2ヶ月前に買ったばかりだった)ので買い替えはあまり真剣に検討していなかった。ただ、ガジェット系サイトやTwitterなどの情報を見る限り、画面サイズの割にかなり軽く、薄く、そして背面の質感などもかなりかっこよかったので一応実機(モック)を触ってみたいと思い、ビックカメラに向かった。 Xiaomi製品のコーナーを探していると店員が寄ってきた。 「お客さんスマートフォンをおさがしですか?」 「Xiaomi の新製品見てみたいなと思ってきたんですけど」 店員が売り場に案内してくれた。 モックを触ってみると前評判通り、薄くて軽かった。店員も 「どうです?軽いでしょう?」と言ってきた。 「いやあ、めちゃくちゃ軽いですね」と私は答えた。 感想を話すうちに、購入と同時にYmobileに契約することで端末代金が2万円割引になるということに揺さぶられ、口車に乗せられ、とりあえず見積もりをとってもらうことにした。 ===見積もり内容をざっくり=== ・それまでIIJmioのギガプラン4GBを契約→約1,100円/月 ・ワイモバイルの一番安いプランは3GBで約2,100円/月。ただし、端末が割引になるのはもう1段階上の約3,300円/月のプランを契約することが条件なので初月はこれを契約しなければならない。 ・割引後の端末代金は約24,000円。 ・初期費用が3,300円かかるがキャンペーンによりPayPay残高に同額還元。 ・短期間で頻繁に通信事業者の乗り換えをすると信用情報?的によくないらしいが、およそ半年くらい利用してからの乗り換えなら大丈夫。 これらを加味すると、端末代金約24,000円+(半年でまたIIJmioなどに戻るとして)月額料金の差額が(2,200円×1か月+1,000円×5か月の)7,200円で合計はおよそ31,200円。AQUOS R2compact はフリマサイトなどで15,000円から20,000円くらいで売れていることを考えると十分"アリ"だと思った。 私の記憶が正しければ同キャンペーンは7月31日までらしいので参考までに。 ===...

月岡芳年の鑑賞本を買った

 月岡芳年の鑑賞本を買った。 鬼才 月岡芳年の世界:浮世絵スペクタクル (コロナ・ブックス)  https://www.amazon.co.jp/dp/4582635121/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_QM0C4NK2M8VJ5SCP8HF4/ 月岡芳年は写真や印刷技術の流入によって浮世絵が衰退していった幕末から明治中期にかけて活動した浮世絵師であり、小林清親や豊原国周と並んで「最後の浮世絵」と評される浮世絵師である。神話や合戦などの幅広いジャンルを手掛けた浮世絵師であるが、無残絵と呼ばれる殺しの現場などを生々しく描いた浮世絵師としても知られ、「血まみれ芳年」の二つ名でも呼ばれる。( https://jpreki.com/sanukiyoe/ および https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%B2%A1%E8%8A%B3%E5%B9%B4 )。 私が月岡芳年を知ったのは2年くらい前のことだ。私はオカルト話や怖い話の全般が好きだが、なかでも「人間が一番怖い」みたいな話と「後味の悪い話」が特に好きだ。その後味の悪い話として「安達ヶ原の鬼婆」というものがあり、月岡芳年の作品のなかにその鬼婆を描いたものがあったことで彼の絵を知ったのだ。 安達ヶ原の鬼婆の概要は こちら 。 それを描いた月岡芳年の絵は こちら 。 血こそ描かれていないがwikipediaでは無残絵として言及されている。吊るされた妊婦と包丁を研ぐ醜悪な鬼婆を見事に描いている。 入り口こそ無残絵だったが、殺しや血塗れのシーンでない武者絵も精緻に描かれており、良い。私は美術を説明する言葉を多くは持たないが、なんと言えばいいのだろうか、芳年の絵に宿る侘しさと力強さの両立がとても好きだ。 また、芳年は西南戦争の様子を(想像で)描いた絵も残している。想像で描かれたものとはいえ、戦いの激しさがありありと伝わってくるように感じる。また、戦況をかなり速報性をもって伝えているという点も注目である。 最後に印象的だった絵を一枚( https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/82/Shinchunagon_Taira_no_Tomomori_Sweeping_the_Deck_LACMA_M....

覇気がないらしい

 覇気がないと言われる。やる気がないんだろと言われる。卑屈だと言われる。 自分でもそう思う。この5年間、覇気もなくやる気もなくただただ時間を浪費してきた。でも仕方ないだろ。自分にとって唯一無二だと思っていた野球が奪われてどうしろというのか。 高校2年から3年に進級する3月。冬から春にうつるころ。肘が限界を迎えた。伸ばすこともできなければ曲げるときにもひどく痛む。可動域は30°くらいしかなかった。内側の靭帯を傷めたようだった。それからはチームの練習の補助をしながらひたすら走った。走らされた。肘の状態は一向に良くならないまま走り続け、腰を傷めた。もう終わったと思った。その時点で退部することも考えた。それでも監督に押し切られる形で、痛み止めを服用しながら騙し騙し続けていくことになった。温情があったのか、色眼鏡なしに正当に評価されたのかはわからないが夏の大会は20番の背番号をもらえた。そしてあっけなく負けた。コールド負けだった。試合が終わるとほかの部員はやりきったという様子で清々しい表情をしていた。自分はどうしてもそういう気分にはなれなかった。このまま終わるなんて納得できないと思っていた。 部を引退してからは肘と腰の治療を続けつつ付け焼き刃で受験勉強に励んだ。肘はだいぶよくなったが、腰はまったく良くなる見込みがなかった。 そのままなんとなく時は流れセンター試験、二次試験と終え、とりあえずは志望校に合格し、あっという間に4月になった。 大学生活はとにかく暇だった。どうしてこんなに暇なのだろうかと運命を呪った。そういえば入学式では学長が「もちろん学問にも励んでほしいが、人との交流を大切にし、いろいろなことに挑戦してほしい」みたいなことを言っていただろうか。 しかし、10年間野球ばかりやってきた人間がいきなり「はい、時間たっぷりあるから好きなことやってね」と言われて何かできるのか。何もやりたくなかったし、何にも興味はなかった。あの頃の暇さを今でも呪っているし、大学生という人種が今でも世界一憎い。

無題

 「KM7019468G、起きなさい」 今日も脳内に響くこの無機質な声で目覚める。 Citizens' Life Cordinator。略してCLCと呼ばれることが多い。 6歳になったときに母に連れて行かれた病院で生体通信ナノマシンを身体にインストールされた。これは僕だけの話ではないようで、この国では誰もが6歳になるとCLCを扱うためにナノマシンを身体に取り込む。 それを使って僕たちの脳はCLCとの通信を行う。生体通信ナノマシンをインストールしてからというもの、僕たちは多くのことについてCLCから指示を受ける。そろそろ起きなさい、朝ご飯を食べなさい、今日は冷えるから上着を羽織りなさい、今のペースだと遅刻しそうだから少し速く歩きなさいなどなど。個人の思想や感情にはあまり介入できない、まさに"生活"だけをコーディネートする設計になっていると公式には説明されており、僕の経験からしてもその説明が全くの誤りであるとは断定しがたい。識者のなかではCLCの介入はやりすぎだとか、逆にもう少し人の内面に切り込んだほうが社会の秩序維持に役立つだとかいう議論があるらしい。 ともかく、CLCの指示通りベッドを抜け出しリビングへ。食卓にはすでに母が朝食を並べていた。 「リュウ、早く食べてしまいなさい」 母の言う通り手早く朝食を済ませ、学校へ向かう準備をする。 「KM7019468G、まだ磨き残しがあります。もう少し歯を磨いてください」 CLCはこんなところにまで目を光らせている。 ======== 学校へ向かう道中、いつものように39Rと出会う。 「よぉ、リュウ」 リュウという人間は存在しない。 「それやめろって言ってるだろ。68Gと呼べ」 「いいじゃねえかよ。お前の母さんはリュウって呼んでるんだろ」 「……とにかく、僕は68Gでお前は39Rだ。」 僕が生まれる50年以上前には"名"というもので個人を識別・管理していたらしい。名は多くの場合親が子に授けるものであり、子は自分でそれを選択することができない、それは個人の尊厳を毀損しているということで廃止されたそうだ。公的には僕はKM7019468G以外の何でもなく、リュウというのは母が勝手にそう呼んでいるだけだ。100年以上前には家族を識別するために"姓"というものがあったそう...

掏摸の目遣い

 今時の奉公人を見るに、いかう低い眼の着け所なり。スリの目遣いの様なり。大かた身のための欲得か、利発だてか、又は少し魂の落ち着きたる様なれば身構えをするばかりなり。我が身を主君に奉り、すみやかに死に切って幽霊となりて、二六時中主君の御事を嘆き、事を整へて進上申し、御国家を堅むると云ふ所に眼をつけねば、奉公人とは言はれぬなり。上下の差別あるべき様なし。されば、このあたりに、ぎしと居すわりて、神仏の勧めにても、少しは迷はぬ様、覚悟せねばならず。(葉隠聞書)

時代遅れ?

 週末はマンガワンでラストイニングを一気読みしてました。 印象に残ったのは春日野大栄の前監督(のちに総監督)の話。 いわゆるスパルタ指導で強豪校を長年率いてきたが、時代が変わるとともに生徒の気質も変わって父母会などとも対立し退任することになった監督。 体罰や理不尽なしごきを肯定するわけではない(少なくとも体罰には全面的に反対だし、しごきもしごく側としごかれる側にある程度の信頼関係が必要だと思う)が、相当に出来た人物でもない限り大人から締め上げられる経験が必要というか、そうされないとわからないようなこともあるよなと思いました。 冷静かつ粘り強く諭して、道徳や社会の構成員としてのあり方を教えるのが理想なんだろうけど、現実としては上から強く抑えつけることで社会の秩序が保たれている(そうでないと保たれない)部分もあると思うんですよ。 こんなふうに思う僕はハラスメントやいわゆる"老害"の予備軍ですかね?

寛容の涵養

 寛容でありたい。 ただただそう思う。 しかし寛容マインドで接することが後々になって却ってあれは冷酷だったなとなることもある。寛容と無関心は表裏一体だと思う。 そういうときは相手に提案とかお願いをする形になるのだろうか。「命令」したうえに「お前のために言ってやってるんだぞ」とか恩着せがましかったら最悪だ。 いずれにせよ相手との関係をしっかり考えなければならない。関係というのは上司と部下、先生と生徒というように明確に決まったもののことでもあり、どれだけ親しいかという話のことでもある。関係によって相手に通じる言い方というのも変わってくる。

箸が転んでも悲しい年ごろ

 箸が転んでもおかしい年ごろ、なんて慣用句があるけど僕はもうずっと何年も箸が転んでも悲しい年ごろだ。 まだ眠いのに朝が来るのも、寝たいときになかなか眠れないのも、好きなプロ野球のチームが負けるのも、帰ってから朝のごみ出しを忘れたと気づくのも、冷蔵庫の中で玉ねぎが干からびているのも、食器用洗剤を買い忘れたのも、漢字が思い出せなくなっているのも、休日にやることがないのも、夜の7時を過ぎてもまだ外が明るいのも、自分に友人がいないのも、ミスタイプすうrのも、字が汚いのも、スマホのバッテリーの減りがはやくなってきたのも、読書に集中できないのも、好きだった歌をもうずっと聴いていないのも、デスクトップにファイルが増殖しつづけるのも、それをなんとかしようと作った「一時ファイル置き場」というフォルダが肥大し続けるのも、もう6月が終わるということも、邪なことを考えてしまうのも、何週間も床の掃除をしていないのも、どうでもいいメールの通知にいちいち反応するのも、全部が悲しい。

今日の怪文

 昨日は散歩をした。8キロほど歩いた。 歩きながら色々考えた? 考えさせられた? 考えざるを得なかった? どういう成り行きで? 因果で? きっかけで? その考えが浮かんだのかはわからない、記憶にない。とにかく不意に「いったい自分は何をやっているんだ?」という気持ちが湧いて一人で苦しくなった。ここ数年の自分の 心構えに? 言動に? 行動に? 生活に? すべてに? すべてに。 とにかくここ数年の自分のすべてに腹が立った。自分には何もない。志もなく、能力もなく、仲間もいない。苛立ちだとか妬み嫉みだとか汚い感情を自分のなかでひたすら循環させて増幅するばかりだ。そしてそんな自分に気がついてさらに気が狂いそうになる。気が狂いそうになるのを飼いならさなければならないと思う。 狂う? 狂わない? 投げ出す? 投げ出さない? 諦める? 諦めない? 諦めない。 猛獣使いにならなければならないと思う。 折り返し地点の公園にはハトと花と木とヒトとベンチがあった。ベンチに腰かけ、空を見て、木を見て、花を見て、土を見て、ため息をついた。 ハトを見ていると気持ちが落ち着いた。木とハトの二者択一を迫られたときはハトを選ぼう。 花を見ているとさらに気持ちが落ち着いた。ハトと花、どちらかを選ばなければならなくなったら花を選ぼう。radikoでラジオを聞き始めるとさらに気持ちが落ち着いた。花とラジオの二者択一を迫られたときはなんとかして両方選ばせてもらおう。 自分はよく顔が怖いだとか近寄りがたいと言われるが、草木や花を眺めたり好きなラジオ番組を聞いたりしているときは優しい気持ちになれている気がすると自分では思う。自分を優しい気持ちにさせてくれるものを大切にしよう。 この日はゴミ袋を携行して、道に落ちているゴミを拾いながら歩いた。来世のために徳を積まねばならないからだ。というのは半分冗談で、勇気がない人間になるのが嫌だからだ。ゴミに気づいていないのはともかく、ゴミに気づきながら見ていないふりをするのは勇気がないということだ。それが、時間に追われている通勤や通学時ではなく気ままな散歩のときならなおさらだ。 義を見てせざるは勇なきなり、というのはそういうことなのではないだろうか。 できた人間だとかキレイ好きだとかそういうことはどうでもいいだろう。ただ、勇気がないと思われるのは、腰抜けだと思われるのは我...

板チョコ

 子どもの頃、板チョコにそのままかじりつくのに憧れていた気がする。単純にお金がなかったから、20円とか30円のお菓子をよく買っていた。少しお金を持つようになった中学生以降はとにかく常にお腹が空いていて、100円あったら手軽に腹を満たせる惣菜パンばかりを買っていた気がする。 今でもお金に余裕があるわけではないが、100円の板チョコを買うのに気苦労するほどでもない。運動もあまりしなくなって、手軽にカロリーを多く摂取できる惣菜パンを買う必要もなくなった。今こそ、板チョコにかじりつくべきときなのだ。 しかし、事態はすでに手遅れだった。甘いものを一度にたくさん口に含むと気持ち悪くなる歳になってしまい、結局割りながら1ピースずつ食べている(貧乏性が染みついているということもあるが)。 夢は夢のまま終わるものだ。

頽廃空虚的現代怪異譚_No.1「信号機と怪異」

信号機(交差点)は現代の怪異に好まれるスポットのひとつである。 その理由としては、交通事故が起き人が命を落とす場所であるということ、横断歩道を渡ることが三途の川を渡ることに通ずるのではないかということ、その動きの規則性などが指摘されている。 A県某市では昼間にふらっと現れ横断歩道の辺に立ち、小一時間の間、歩行者信号が青になるたびに横断歩道をひたすら往復するババアが報告されている。この活動はなんらかの儀式ではないかという指摘もある。 不審者対策として不審な人物を見かけた場合元気よく挨拶するようにと小学生に指導している地域もあるようだが、この信号機ババアに挨拶すると、儀式を乱されたことに怒りを感じるのか、追いかけ回してくるとされている。なお、この信号機ババアに追いかけられ捕まったという例の報告はなく、逃げ切れなかった場合どうなるかは不明である。 そのほか、歩行者信号が赤であるにも関わらず横断歩道を渡りたくなる、なぜか急に横断歩道の反対側へ行きたくなるというような気分になったことがある人がいるかもしれないが、これは怪異の仕業であるとする説もある。 ※本記事の内容は9割方適当です。

saikinn-no-tanka_20210617

 ネタがないのでこれまでに詠んだ短歌をまとめておきます。 解説するのも無粋といえば無粋ですが、話したくなるのが人間というものなので一言二言説明を加えさせてください。 ・新緑や虫取り網の少年がこんな街にもいるのだと知る これはそのままですね。僕なんかは田舎で育って小学生のころはよく虫取り網を持って走り回ったものですが、都市部にも一応は虫を追う少年がいるのだなと。 ・傘を打つ雨音脳に滲み入りて歩く理由を忘れぬるかな 特に言うことはないです。 ・「大人でも弱音を吐いたりしていいの?」問うてみたとて答える者なし 台詞というか口語的な言い方を入れるのが好きです。 ・ぼくたちの脳を操る腸内の微生物たちすべてくたばれ 腸内細菌が脳を操るなんて突飛な話に聞こえるかもしれませんが、natureダイジェストの2021年5月号の表題が「腸内細菌が宿主の脳を変える!?」になっているとおり、腸内細菌と脳の活動の関連が示唆されています。( https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v18/n5 ) GIGAZINEでもこの手の話をたまに見かけます。 一例↓ 若い頃に砂糖を摂取し過ぎると脳の記憶機能に悪影響が出ると判明、鍵は「腸内細菌」か - GIGAZINE https://gigazine.net/news/20210402-bacteria-with-sugar-act-brain/ ・太陽系50億年のその歴史すべてを巡るそんな夢を見た 実際には46億年くらいらしいです。

【ラジオ番組紹介】熊木杏里 夢のある喫茶店

イメージ
 ラジオ番組回です。 北海道福島長野富山石川京都で聞ける熊木杏里 夢のある喫茶店。 シンガーソングライターの熊木杏里さんがパーソナリティを務めている番組。なんというかほんわかした雰囲気です。包み込むような優しい声、寄り添うような語りかけ方、こんな人だからあれだけ素敵な曲を作れるんだなと思います。リラックスして聴ける番組です。 おすすめの曲は「春の風」です。

源順の名誉回復

 アジサイの漢字は源順(みなもとのしたごう)が白居易の詩から誤って引用したという話を先日しましたが、その話だけで終わるとなんだかかわいそうなので源順のすごいところを紹介しておきます。Wikioediaレベルの話ですが。  彼が成し遂げた偉業のひとつは『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう、略称は和名抄「わみょうしょう」)という辞書を編纂したことでしょう。名詞をまず漢語で集め、意味により分類し、万葉仮名によって日本語に対応する読みをつけたうえで漢籍を引用しながら説明を加えたもので、今日でいう国語辞典や漢和辞典、百科事典のような要素を持つようです。 「当時から漢語の和訓を知るために重宝され、江戸時代の国学発生以降、平安時代以前の語彙・語音を知る資料として、また社会・風俗・制度などを知る史料として日本文学・日本語学・日本史の世界で重要視されている書物である。」 という記述を見る限り、平安時代以降の人々にとって幅広い知識を得る源泉であり、現在の歴史研究にとっても非常に意義のあるものなのではないでしょうか。しかも編纂をしたとき、まだ20歳代だったというから驚きです。  写本が国立国会図書館のデジタルコレクションにあるので見てみるのも面白いと思います(→ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544216 )。  さらに、" 梨壺の五人 "として『万葉集』の解読、『後撰和歌集』の編纂などに携わったほか、和歌の名人として三十六歌仙の一人にも数えられ、その才人ぶりが伺えます。  今日の記事をもって源順の名誉回復とさせてください。 参考:Wikipedia「源順」「和名類聚抄」

music_subscribe

 先週の金曜日(11日)の「日食なつこの拝啓、あをいめだま小いぬ」で音楽のサブスク……つまり、月額制音楽ストリーミングサービスの是非、みたいな話がありました。 なつこさんの見解としては、便利だけど音楽がどうしてもBGM的になってしまうのではないか、曲のために財布を痛めて「この曲が本当に好き!」という感覚が薄れてしまうのではないか、とのことでした。 自分は音楽のストリーミングサービスとしてはAmazon Prime会員なのでPrime Musicを使ってるくらいです。追ってるアーティストはMP3ダウンロードで買ってます。それでもたまに、好きな曲なのに「いつでもYouTubeで聴けるからいいや」みたいな妥協から買わなかったりします。本当に好きだったらやっぱり買わなきゃですよね、反省しました。 みなさんはどう思いますか。

紫陽花

イメージ
 アジサイを漢字で書くと紫陽花だということは広く知られているところであり、僕も知っていたがなぜ紫(むらさき)の陽(ひ)の花なのかということはあまり考えたことがなかった。 Wikipediaを見ると、唐の詩人、白居易が別の花、おそらくライラックに紫陽花と名付けたのを平安時代の学者、源順(みなもとのしたごう)がアジサイにあてたことで誤って広まったとのこと。 意外な理由だった。 ちなみに白居易が紫陽花と名付けた詩は以下の通り( https://kanjibunka.com/yomimono/rensai/yomimono-9281/ より引用)。  何年植向仙壇上  (何れの年にか仙壇の上に植えたる)  早晩移栽到梵家  (早晩[いつ]か移し栽えて梵家[ぼんか]に到る)  雖在人閒人不識  (人間[じんかん]に在りと雖も人識らず)  與君名作紫陽花  (君の与[ため]に名づけて紫陽花と作[な]す) そんなアジサイを今日見に行った。僕はけっこうアジサイが好きなのだ。好きな花トップ3には入る。そもそも思い浮かべたときに名前と見た目が一致する花が多くないのだが… 思えば、農村地域に育った僕にとって季節の変化というのはどちらかと言えば受動的に感じるものだった。花や草木はもちろん、山菜や海藻、蛙や雉や鷺の鳴き声。雪も積もるし新雪にウサギの足跡が残ってたりもした。アジサイだって家の庭にあったし近所にも軒先にアジサイがある家は多かった。都市部に来てみれば気候や天気で季節を察知することはあっても花や草木が目につく機会というのは多くはない。季節の移り変わりを愛でるためには自分から捕まえに行かねばならぬ。 このブログを読んだ皆さま方もぜひ家族や恋人や友人と梅雨を愛でに行き、アジサイに関する薀蓄でも披露してみてはどうだろうか。 以上