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「LISTEN 知性豊かで創造力がある人になれる」を読んだ

 先月上旬に体調を崩して療養していた際、かなり暇だったのでKindleでいくつか本を買って読んだ。そのうちの一冊がこれだ。この本の主張を私はおおおよそ次のように理解している(間違いもあるかもしれない)。 ==== この本はタイトルからもわかる通り「聴く」ことに主眼を置いている。"hear"ではなく"listen"、日本語では「聞く」と「聴く」の違いに近い。ただ単に耳に音や言葉が入ってくることを指す"hear"ではなく、注意深く耳を傾けることを指す"listen"だ。では、「聴く」ことはなぜ必要なのだろうか?どんなメリットがあるのだろうか? <「聴く」ことの良い点> 話を聴いてもらう側の視点からすると、聴いてもらうことで孤独感が軽くなることが利点だ。逆に言えば、話を聴いてもらえないことで人は強く孤独を感じる。そして孤独は健康を害するということを示唆する研究も多い。テクノロジーの進化により私たちはSNSで自らの考えなどを発信したり、タイムラインやネットニュースなどから膨大な量の主張や情報を得たりすることができる。その一方で人の話をじっくり聴いたり、よく話を聴いてもらったりする経験はそれに比べるとあまりないのではないだろうか(私にもそういう心当たりがあった)。仮に目の前に人が居て会話をしていても、SNSやYouTubeやNetflixが気になって相手の話の内容に集中できないという場面もあるかもしれない。 そういった世の中だからこそ、じっくり話を聴いて、相手に安心感を与えることができれば、信頼してもらえる。一種の差別化戦略のようにワークする。これが聴く側にとっての利点だろう。 そして両者にとって、「より多くの情報を得られる」というメリットがある。うまく話を聴くことができれば、相手が経験したことや感情を理解することができる。相手が何かに精通している人、専門性を有している人であれば知識や物事のコツなどを引き出すこともできるかもしれない。話す側も、そういった会話を重ねることでぼんやりと掴んではいたが意識していなかったこと、認識できていなかったことに気づくことができる。本文中の例では、「赤ちゃんの声が耳に障る」という母親との対話により「自分が小さかったころに、誰も何もしてくれなかったことを思...

2010年代SF傑作選2

  2010年代SF傑作選1 に続いて。 自分としては、1の「allo, toi, toi」ほど強烈に印象に残る作品はなかった。収録作品のなかで最も面白く読んだのは巻頭の「バック・イン・ザ・デイズ」だろうか。 物語の舞台では視覚情報や音などを記録して過去の体験を再現し、追体験できるという技術が出来ており、大衆向けに提供されるのも間近か、という時期。主人公は小さな田舎町で育ったが10代後半ごろから親との折り合いが悪くなり、一度街を出てからは全く寄り付かなくなってしまったという男。災害が地元を襲い両親が亡くなったため姉と相続などについてやりとりしていた折、先述の過去を追体験するサービスを開発しているテック企業の弁護士から連絡がくる。そこで主人公はこの企業が自分の両親を含む地元住民と協力して、住民らの視覚情報・聴覚情報のすべてを収集し、記録していたことを知る。そして、両親は収集した情報を主人公に開示することを依頼していたため、主人公はVRのような形で、仮想タイムスリップをする。そして、当時の自分・家族を、俯瞰的な目線で観察し、思いを巡らす。 これを書きながら思ったが、私は言葉で言い表せない人間関係の妙を描いたものが好きなように思う。この作品の場合、一言で表そうとすると「家族の絆」とかそういうものがテーマだとすることができると思うが、「家族の絆」のひとことでは十分の一も表せていないようなウェットな感じがなかなか好みだ。 そのほかの作品では「11階」も好きだなと感じた。これはどちらかといえばSFというよりはホラーと呼ぶほうが相応しいようなテイストだったが、楽しく読めた。仲が良かった少女の不幸な死をきっかけとして妻が幼い頃に背負った呪い(作中ではそういう言及はないがほとんどそう呼んで差し支えないと思う)を夫の目線から見つめ、二人の出会いから妻の死までを描いた話。 妻の不思議な人物像や、呪いによって妻が迷い込む「11階の世界」を表現する言葉の一つ一つがきれいで、引き込まれる文章だった。

2010年代SF傑作選1

 2010年代SF傑作選1 10作家の作品を収録した、2010年代ベストSFアンソロジー。特に印象的だったのは「allo, toi, toi」(長谷敏司 作)。以下ネタバレ要素しかないあらすじと感想。 ===== 時は2090年。科学の発展により、人工的な"疑似神経"を脳内に構成し、感覚や経験といったものを人工的に脳内に生み出すことができるようになっていた。そんな、疑似神経分野の最大手であるニューロロジカル社は刑務所に収監されている囚人を被検体としてとある実証実験を行おうとしていた。 被検体の名は、ダニエル・チャップマン。罪状は児童に対する性的虐待および殺人。懲役100年。実験の目的は疑似神経を用いてチャップマンの脳内に"アニマ"をつくり、その作用の結果として彼の小児性愛を矯正すること。アニマとの対話を通じて、彼の「好き嫌い」を分類し、認識させるのだ。ニューロロジカル社の研究者であるリチャードに言わせれば、 「子どもは、性的な関係を持つ対象としては、本来刺激が大きいわけではない。子どもにとっておとなとの性行為が苦痛であるように、おとなにとっても、身体が未熟で性行為の経験もない子どもとの性的関係で、強い刺激を受けることは難しいはずだ。つまり、子どもを性的対象とする快楽の強さは、隠されたものである背徳感や、社会が子どもに付加した良いイメージに依存している。この時代に、君たちが子どもに性欲を向ける理由は、肉体的に満たされる予感ではなく、社会が与えた『好き』への誤解だということだ」 つまり、彼が言うのは、保護すべき対象として子どもに向かう正の感情や、社会的に持たれる子どもに関する良いイメージ(純真さ、無垢さなど)などが混乱して、性欲にもつながる 『好き』として認識されているのであり、そういった『好き嫌い』の感情を整理していくことで小児性愛は矯正されるというビジョンだ。 チャップマンの脳内に構成されたアニマは少女のイメージ。研究者が技術を以ってそう仕込んだのではなく、チャップマンが少女を愛好していることに応答して、彼の脳が自ら形成したものらしい。彼には少女の声が聞こえるようになり、朧気ながら姿も見えるようになる。 彼がアニマとの対話を続けていくなか、彼が刑務所のなかで頻繁にリンチにあっていることが研究の継続上の問題となる(貴重な被検体が...

コインロッカー・ベイビーズ

     村上龍の コインロッカー・ベイビーズ を読んだ。      生後まもなく駅のコインロッカーに置き去られたキクとハシ、二人の孤児の物語。二人は九州の離島に住む夫妻に引き取られ、成長し、そして東京へ行く。     読後感は「愛と幻想のファシズム」を読んだときのそれとよく似ていた。     「高慢でいい、自惚れろ、強く生きろ、世界が気に入らないならぶっ壊してしまえ」と訴えかけられたような気分。     キクとハシは乳児院時代(九州へ引き取られる前)、その生い立ちのせいもあってか自閉症的傾向があるとされ、精神科医による治療を受ける。その際、二人はある音を聞かされある種の催眠状態となって自閉症的傾向は改善されていく。      ハシはやがてその"音"を探すようになり、東京での生活の中であの音は心臓の鼓動だったと気づく。そして胎内で聞いた心音が伝えるものは「死ぬな、死んではいけない」という信号だったと理解する。     一方キクは紆余曲折あって、自分を捨てた母親を(明確に意図したわけではないが)殺し、最後には米軍が小笠原諸島に沈めた、生物の凶暴性・暴力性を解放する神経兵器"ダチュラ"を東京にばら撒いて都市への復讐を果たす。     こう書くとキクがとんでもないやつのように思われるかもしれないが、ハシもハシで精神を病み、妊娠した妻の腹を刺したりもしている。     キクとハシが生まれたのは夏で、蒸し暑いコインロッカーのなかで生き延びた二人は生命力・エネルギーに満ちている。特にキクのエネルギーは強大で、自分のような存在を生んだ都市という"コインロッカー"を破壊することがキクの生き方であり、自身の生い立ちの克服となった。      一方ハシは、「自分はかわいそうなやつだ」という自己憐憫の傾向があり、妻を刺傷することをはじめとして様々な奇行を繰り返す。それこそ「死にたい」「殺してくれ」というようなことを言うメンヘラ男だった。しかし最後には心音の意味を理解し、自らの欠落を受け入れて新しい生き方を志す。     コインロッカー...

【書評】友情 武者小路実篤

詳細なあらすじは Wikipedia などで見てほしい。 短くいえば主人公(野島)は女(杉子)に惚れ、いつも友人(大宮)に相談するが、杉子は野島などには目もくれず大宮しか見ておらず、そして大宮と杉子が順当に結ばれるというありがちといえばありがちな話だ。 野島は俺たちであり俺たちは野島だ 野島は大宮が自分のことを応援してくれていると心から信じていた。実際大宮は杉子に対してうっすらと好意を抱きながらも、野島を立ててサポートしてはいた。さらに、大宮は「杉子は自分に気がある」と勘づいて、野島のほうに目が向くように(もともとそういう希望があったとはいえ、)わざわざヨーロッパに留学までした。 それでも杉子の意志は変わらなかった。対面するときは野島に対して好意とまではいかなくとも敬意があるように振る舞いながらも、ヨーロッパに渡った大宮に彼女が宛てた情熱的な手紙では、野島はこき下ろされていた……とまではいかなくとも「あんなやつは眼中にない」と言わんばかりの、路傍の石同然の扱いだった。 大宮も大宮だ。少なくとも私からすれば「僕も実は杉子が好きやねん……」と言われたうえで上述の結果になるほうがまだ納得がいくのだ。彼はヨーロッパに渡ってからもはじめのうちは野島と手紙のやりとりをしていたのだが、ある時期からそれがピタッと止まり、そしてしばらくして突然に「こういう経緯があって僕は杉子と結ばれるねん」と通告してくる。 野島は友情という綺麗事と女の表面上の振る舞いという二つのものに騙され、裏切られてきたことを突然かつ同時に知る。そして彼はこう言う。「神よ我を救い給え」 野島は俺たちであり、俺たちは野島だ。世界の残酷さを見せつけられ、 自己防衛のために 「綺麗事はクソ」「女はクソ」「すべての人間はクソ」と息巻く。そして、それでもなお、騙され、裏切られる。俺たちはバカだからだ。そして更に自己防衛の呪詛を強くしていく。野島は俺たちであり、俺たちは野島だ。 神よ、俺たちを救ってくれ。

谷崎潤一郎犯罪小説集

 表題通り。集英社文庫。 「柳湯の事件」「途上」「私」「白昼鬼語」の4篇を収録。過去の私のブログを見ている人はよくご存知かもしれないが私は暗くて不穏で謎に満ちた感じの話が好きだから読んでいて快かった。 柳湯の事件では弁護士事務所におかしな青年が駆け込んできて「(自分でははっきりとは判断がつかないのだが)どうも私は殺人を犯してしまったらしい、もし警察が追ってきたらすぐさま身柄を受け渡すのではなく話だけでも聞いてもらえるように取り持ってほしい」というようなことを頼まれる。 結果的にこの青年は実際に人を殺めていて、彼が話した経緯もかなりデタラメだったという結末になる。 これはこの話への文句というわけではないのだが、もし仮に長編ミステリー小説・長編サスペンス小説において最後に「実は犯人は狂人でした」みたいな結末になったら間違いなく不愉快な気分になるなということを考えた。この「柳湯の事件」はかなり短く、青年がどこかおかしいということもはっきり書かれているのでこの限りではない。 ほかのものでは「私」がなかなか好きだ。内心を裁くというのは残酷でグロテスクなことだと思うのだが、そういう不穏さに惹かれる自分がいる。直接的(で正直)な言及は意図して避けながらも騙すための嘘は絶対につかないという語り手のやり口には私も心当たりがある。

盗賊会社、蜘蛛の糸・地獄変

 盗賊会社 星新一(新潮文庫) 蜘蛛の糸・地獄変 芥川龍之介(角川文庫) 星新一は小中学生のころにけっこう読んでいたが、それ以降はあまり触れていなかった。収録作のうち、記憶にあるものは数えるほどしかなく、初めて読んだものかあるいは読んでも全く覚えていないものがほとんどだった。ショートショートはひとつひとつが非常に短くて、読むのをやめるタイミングがわかりやすくてよかった。一日3本とかそういうふうに決めて読み進めることができる。 星新一はSF作家とされることが多い。SF作品は往々にして未来予知の要素をもつ。「盗賊会社」に収録されているものの中では、「趣味決定業」「無料の電話機」あたりが未来予知の結果現代に起こっていることをなかなかに言い当てているように思った。 蜘蛛の糸・地獄変は、てぬぐいメーカーとのコラボの「かまわぬカバー」というシリーズのもの。( https://store.kadokawa.co.jp/shop/g/g322101000263/ )持ってるだけでも嬉しいやつ。見た目だけじゃなくて触り心地もいい。全部このカバーにしてほしい。 個人的には角川文庫は文豪ストレイドッグスとのコラボカバーをやめてほしい。中島敦の「文字禍・牛人」が買えない。 邪宗門は全く読んだことがなかった。こんな作品とは思っていなかったので意外だった。面白かった。未完で終わってしまっているのが非常に残念。AIのべりすとがもっといい感じになって続きを書いてくれないだろうか。 2021年は35冊くらい本を読んだっぽい。2022年は45-50冊くらいは読めるといいなと思う。以上

折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー

表題通り、現代中国SF13編を収めたアンソロジー。 このような短編集や、複数の作品を収めたものは掲載順を気にせずに、興味をもったところから読むという読み方もあると思うが(私はそうしないが)、本書においては前書きは読んでおくとよいかもしれない。 編者であるケン・リュウは前書きで、「貧富の格差や、検閲といった現在の社会問題への風刺というコンテクストで中国のSFを読みたくなるのはわかるが、できるだけそうした誘惑に抵抗してほしい」と述べている。私も中国SFに限らず、SFには未来予測や社会風刺のコンテクストを見出しがちだが、中国SFにはより強くそういうイメージを持っていた。そういったコンテクスト性を完全に排して読むのは難しいかもしれないが、「中国SF」という先入観は除いて読むこととした。 もっとも面白いと感じたのは全世界的人気作「三体」の作者、劉慈欣がその「三体」から抜粋改作した「円」だ。舞台は古代中国で、荊軻という燕国からの刺客が後に中国を統一し「始皇帝」となる秦王政に謁見するところから始まる。史記では荊軻は政の暗殺を試みて返り討ちに遭うが(高校の古典の授業で習った人もいるかもしれない。私は習った)、この「円」では荊軻は政に取り入り、配下として気に入られる。天の理(ことわり)を知りたいと望む政に荊軻はそれは図形と数字に現れると話し、そして円周率10万桁の計算を命じられる。 まさしく社会問題の風刺というコンテクスト抜きに、古代中国において円周率を10万桁まで計算するというサイエンスの壮大さもありながらいかにも"ありそう"と思わされる感じと、いわば"荊軻のifストーリー"というフィクションの側面がうまく噛み合っており、サイエンス・フィクションとして素直に面白い。「三体」は未読なのだがぜひとも読んでみたいと思わされた ほかには「沈黙都市」「折りたたみ北京」が印象的だった。巻末には中国の文学の世界におけるSFに位置づけ、歴史についてのエッセイも収録されており、それもなかなか興味深いものだった。

犬はどこだ

 犬はどこだ 米澤穂信 ネタバレ要素あり。「要素あり。」どころかガッツリネタバレ。 まあ、重めな話だった。 === 主人公の紺屋長一郎は銀行員として働いていたが、体を壊して療養を経たのち社会復帰の一環として自営業、犬捜しを想定した調査事務所を開業した。 しかし最初に舞い込んだ依頼は「人捜し」であった。失踪人の名は佐久良桐子(サクラトウコ)。依頼人はその祖父。桐子は東京で働いていたが突然会社を辞め、一人暮らしをしていた部屋も引き払い、その後は連絡がつかなくなっていた。桐子の両親は彼女なりになにかあるのだろうと考えあまり大事とは捉えていないようだが、心配になった祖父が相談に訪れたというわけだ。失踪というと警察にでも相談したほうがよさそうなものだが、物語の舞台が小規模な地方都市であること、とりわけ祖父の暮らす地域はかなりの田舎であり、桐子の20代半ばという年齢を考えればたとえば結婚に差し支えるような変な噂がたってほしくない、大事(おおごと)にしたくないとのことである。 各方面への聞き込みなどから長一郎は、桐子はエマというハンドルネームを使ってブログを運営していた中堅ブロガーで、ブログ内BBSであるユーザーに粘着されていたこと、そしておそらくそのユーザーがブログの投稿などから桐子の会社や住所を突き止めブログ内BBSのみならず、実際にストーキングをしているだろうと考える。つまり、桐子が身を隠している理由はストーカーから逃れるためではないかということになる。問題は桐子が今どこにいるのか、ストーカーのトラブルは解決できそうなのか、という点なのだが…… 結論から言えば、桐子はストーカーに自宅を突き止められ、強姦された(それを表沙汰にできないのは桐子には結婚まで考えていた恋人がいたから)。そして桐子はストーカーを殺害する計画を立てていた。彼女は単にストーカーから逃げていたのではなく手がかりを散りばめ、おびき寄せていた。長一郎が桐子の居場所に辿り着いたときには桐子は既に殺しを終えていたようだと推察され、長一郎は「見つけ出したのでお祖父さんによろしく」ということを言ってそそくさと退散する。 === この話は2004年の出来事ということになっており、「そのころからこういうインターネットでのトラブルはあったんだな~」というのが率直な感想。桐子はブログの投稿内容からストーカーに特定を許...

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

 現代SFの金字塔。実は読んだことがなかった。 物語の読み方は様々であるが、この作品についてテーマをまず一つに絞るのなら、高度に発達した人間型ロボット(アンドロイド)と人間の区別、関わりがテーマであり、もう少し踏み込んで言えばアンドロイドと人間の対比によって「人間とはなにか」を浮き彫りにしていると言える。 そして「人間とはなにか」「人間とアンドロイドはなにが違うのか」という問いへの答えはマーサー教の教義が全人類の一体感・感情の共有であることからも、アンドロイドと人間を見分ける手法であるフォークト=カンプフ法の評価基準が他者への共感の度合いであることからも、暫定的には他者への共感・感情移入ということになるだろう。 しかしながら、「ネクサス7型ではカンプフ法による区別はできないかもしれない」というような描写(既にレイチェルをテストで判別するのには困難を伴った)や、(テストによる評価ではなくあくまでリックの主観的な評価として)「あまりにも人間らしいアンドロイドに出会った」というような言及があることから、それもまた不確かなものであると言えるだろう。 一方で物語の終盤、テレビ放送での暴露によってマーサー教が作り物であるということが知れ、「共感が人間だけのものなんて嘘っぱちだ」と狂喜乱舞するアンドロイドたちは、クモの足を切断していくことに強い抵抗を示すイジドアの感情を全く理解できないという態度を示しており、最新のネクサス6型と人間の間にも依然として大きな違いがあるとも思わされる。 タイトルに電気羊とあるように人間以外の動物もロボット化されているため、人間-アンドロイドという対比をさらに広げて、生物-ロボットという見かたもできるのかもしれない。 === 各シーンについては先述の、アンドロイドたちが興味本位でクモの足を切断していくなかイジドアが強い抵抗感をもつというシーンが特に印象的だった。フィル・レッシュやレイチェルとの関わりのなかでリックがアンドロイドに対しても共感を持ちつつあるということを描いたのちにこれがきたのは、"やはり人間とアンドロイドとでは大きな隔たりがあるのでは"と強く感じさせられた。 あとは、イジドアのような特殊者(スペシャル)が俗にピンボケと呼ばれているのが印象的だった。原書ではどういう言葉を使っているのだろうか。知能テストをパスできず、死の...

禽獣

 伊豆の踊り子 川端康成(新潮文庫)を読んだ。表題作のほかにも「温泉宿」「抒情歌」「禽獣」を収録していたが、特に印象に残った禽獣について書く。 主人公はなにやら文化芸術の関係者であり、あくせく働いている様子はない。題にあるように禽獣つまり鳥や獣を飼い、女中を雇い、悠々自適とまでいうかはわからないが比較的余裕のある暮らし向きのようである。 印象的なのは彼の動物に接する態度だ。塀の外で子どもが騒いでおり、何があったのかと覗いてみると、ゴミ捨て場に雲雀のヒナがいた、育ててやろうと近づいて子どもの話を聞き、向かいの家の人間がそれを捨てたと知ると その家には、三四羽も雲雀を飼っている。ゆくすえ鳴鳥として見込みのない雛を棄てたのであろう。屑鳥など拾ってもしかたがないと、彼の仏心は忽ち消えた。 となる。また、次のような一節もある。    だから人間はいやなんだと、孤独な彼は勝手な考えをする。夫婦となり、親子兄弟となれば、つまらん相手でも、そうたやすく絆は断ち難く、あきらめて共に暮らさねばならない。おまけに人それぞれの我というやつを持っている。   それよりも、動物の生命や生態をおもちゃにして、一つの理想の鋳型を目標と定め、人工的に、畸形的に育てている方が、悲しい純潔であり、神のような爽やかさがあると思うのだ。良種へ良種へと狂奔する、動物虐待的な愛護者達を、彼はこの天地の、また人間の悲劇的な象徴として、冷笑を浴びせながら許している。  犬が妊娠・出産し、やるべきことはわかっていたのにそれをせずに、すぐさま全部の仔犬を死なせてしまったときも 彼は仔犬が死ねばいいと思ったわけでもなかった。だが、生かさなければならないとも思わなかった。それほど冷淡だったのは、彼等が雑種だからであろう。 とある。彼が冷淡というか理想主義的であるのは動物に対してだけではない。千花子という彼が一時関係を持った舞踊家が妊娠出産を経て"肉体の力はげっそり鈍って見えた"ときには「子供がほしかったんですもの」と言う彼女に向かって  「育てる気か。そんな女々しいことで、一芸に生きられるか。今から子持ちでどうする。もっと早くに気をつけろ」 などと言う。かつて千花子と心中しようとしたときにも、裾をばたばたさせるというから足を縛ってくれ、という彼女の註文に応え、彼女の...

文字渦

文字渦 円城塔   秦の始皇帝の陵墓から発掘された三万の漢字。希少言語学者が遭遇した未知なる言語遊戯「闘字」。膨大なプログラミング言語の海に光る文字列の島。フレキシブル・ディスプレイの絵巻に人工知能が源氏物語を自動筆記し続け、統合漢字の分離独立運動の果て、ルビが自由に語りだす。文字の起源から未来までを幻視する全12篇。(新潮社ウェブサイトより転載) 紹介文にもあるように、文字、とくに漢字についての短編12篇。知的好奇心を刺激されるテーマであり実際面白いと感じたのだが、明確なイメージとして話、ストーリー、プロットを掴むのはなかなかに難しい(というか自分にはできなかった)。ジャンルとしては雰囲気系SF、あるいは雰囲気系ミステリーにでも位置づけられるだろうか。 表題作にもなっている『文字渦』は中島敦の『文字禍』を"もじ"ったものかと思われるが、実際には内容としては関連は薄かったように思う。 文字というのが単に音を表すためのものではないというのは、私たちのよく知るところかと思う。私たち日本人の多くは文字自体に意味を内包している漢字を日常的に、頻繁に利用しているからだ。では、「文字というのは単に音とその文字の持つ"意味"によって情報を伝達するためのものである」とした場合はどうだろうか。これにも首を捻る人はいるだろう。書道というものがあるように、私たちは文字に対して芸術性を見出すこともできる。同じ文章であっても使用されているフォントによって受け取る印象が違ってきたりする。もっと飛躍した例でいえば、私たちの先祖は文字に大きな"力"を見出して呪符としたり儀式の道具としたりしてきた。 このような、文字のもつ力・文字のもつ生き物のような性質を扱っているのがこの本だ。 12篇のなかで特に印象的だったのは『境部さん』が最初に出てくる話(タイトル忘れた)で、この世界ではディスプレイの薄型化が進み、ほとんど紙と変わらない薄さのものが広く普及している(というより用途として紙(主に植物の繊維を原料とする)をほとんど置換している)。紙(主に植物の繊維を原料とする)と区別するために超薄型ディスプレイのほうは帋と表記される。ここで境部さんが発した重要な問いかけは「帋に描かれた文字は本当にそこに"ある"と言えるのか」というもの...

誰もわかってくれない 傷つかないための心理学

 誰もわかってくれない 傷つかないための心理学 ハイディ・グラント・ハルヴァーソン/高橋由美子訳 (No One Understand You, And What To Do Abou It   Heidi Grant Halvorson) われわれのコミュニケーションにおいては相手に意図した通りのメッセージが伝わるとは限らない、むしろ状況によっては意図しない方向に受け取られがちになったりする。そういったことはなぜ生じるのか、それを避けたいのであればどうするのがよいのか、という話。 少し厳しめに書くと、全体的に「〇〇という事例がありますが、あなたにも同様の経験がありますよね。これには✕✕という心理が働いて▲▲というプロセスを経てそういうことが起こってしまうんです。これは■■の実験でも裏付けられています!」という論調で、要領を得ないということはないが"ふわっと"している感じは否めなかった。誤解されないために、相手のバイアスを緩和するためにどうすることが必要か、ということも書かれているがそこもかなり抽象的に感じられた(これに関してはまあ、具体的で現実的で実体的な小手先の行動や言葉が万人に通じるほど人間の心理というのは単純なものではないということなのだろうが)。とはいえ、コミュニケーションスキルに乏しい私にとってはそんな抽象的でふわっとしたアドバイスさえも多少の参考となるものだった。 私たちが他者を判断するプロセスは二つの段階を経るという。第一フェーズが思い込みによる"自動的な"判断、第二フェーズが(自動的でなく、)努力を必要とする"最初の印象に修正を加えていく"判断だそうだ。つまり、自分が判断される側のときはまず相手が極端な思い込みをしないようにすること、そのうえで悪い印象を与えたときは相手がその判断を修正するよう仕向ける必要性がある。 人間というのは本当に知能をよく発達させた動物だが、それでもこの第一フェーズのように、些細な思考・判断に割くリソースを出し惜しみしているのは不思議なものだと思う。むしろ、些細なことについては自動化してしまったからこその発達なのかもしれないが。 なかなかまとまりのない文になってしまったが、まあ、他人からは自分は自分が思うようには見えていない、ということを意識して生きていきたいという...

批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義-

 批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義- 廣野由美子 批評理論についての書物は数多くあるが、読み方の実例をとおして、小説とは何かという問題に迫ったものは少ない。本書ではまず、「小説技法篇」で、小説はいかなるテクニックを使って書かれるのかを明示する。続いて「批評理論篇」では、有力な作品分析の方法論を平易に解説した。技法と理論の双方に通じることによって、作品理解はさらに深まるだろう。多様な問題を含んだ小説『フランケンシュタイン』に議論を絞った。(「BOOK」データベースより) 先日読んだ 「小説読解入門-『ミドルマーチ』教養講義」 でも参考として挙げられていたため購入。前半の「小説技法篇」は「小説読解入門」にも同じパートがあるように、重なる部分も多かったが題材として扱うものが「フランケンシュタイン」となっており以前読んだことを追認しつつ楽しみながら読むことができた。 後半の「批評理論篇」では実際にフランケンシュタインに向けられた批評や、"文学作品に対してよく用いられるこのような批評の視点に立てばこう批評することができる"というように筆者が挙げる例を通して批評の手法を(そこまで深堀りはしないながらも)網羅的に学ぶような形となる。これまでの自分が読んできた作品について「〇〇についてはこういう見方してたな」とか「あれをこの論点から批評すると面白いかもな」などと考えながら読むのが面白かった。 小説や映画などが好きな人は読んでみて損はしないように思う。ちなみにフランケンシュタインを読んだことがなくても問題ない。私もフランケンシュタインという科学者が人造人間をつくってそいつに殺される、くらいのことしか知らなかった。

追想五断章

 追想五断章 米澤穂信 大学を休学し、伯父の古書店に居候する菅生芳光は、ある女性から、死んだ父親が書いた五つの「結末のない物語」を探して欲しい、という依頼を受ける。調査を進めるうちに、故人が20年以上前の未解決事件「アントワープの銃声」の容疑者だったことがわかり―。(Amazon、「商品の説明」より) この本の紹介を書くとはいいながらなかなか筆…というよりはキーボードを叩く指が進まず、遅くなってしまった。先日読み返してみたので簡単にではあるがまとめてみたいと思う。 ひとつ感じるのは、誰しも背負っているものがあるということだ。芳光にも、芳光を居候させてくれている伯父の広一郎にも、物語の探索の依頼主である北里可南子にも、その亡き父である北里参吾にも。 当人の置かれている状況を知っていくにつれてその人の背負っているものが何かを想像することはできるが、相手は明確には口にしないし確信を得るには至らない。現実を描写するのに「彼は悲しい」「彼女は嬉しい」という文章はあり得ない。あっても「彼は悲しそう」「彼女は嬉しそう」だ。他者の感情を断定することはできない。 相手の感情を察して気遣ったり、優しくしたりすることはできるが、それは的外れですれ違うこともある。この物語は「参吾はなぜ物語を残したのか」「なぜ可南子は父の遺した物語を探すのか」が軸であるが、そういったすれ違いの物語でもある。 私たちは自分以外の人が何を感じているのか、何を考えているのかを想像することで人に優しくすることができるし、そういった気遣いが社会を成り立たせている部分もある。しかしながら、想像することがかえって失礼なことになる(「人の心情に土足で立ち入る」というような言い方もある…)場合もある。これらの境界は曖昧で地雷原を歩くようなものだったりもするのだが、そういった状況で自分はどうするか葛藤することができるのは一つの美徳だと私は思う。

サピエンス全史(上)

 サピエンス全史(上) 知人から借りた本であり、もう返却してしまったため本記事での細部の記述には誤りがあるかもしれないということを先に断っておく。 4,5年ほど前だろうか、それくらいのころにけっこう話題になっていた本。石器時代から現代にかけてのホモ・サピエンスの社会・生活について著者の専門である歴史学の観点から綴られている。 もっとも印象深かったのは農耕の功罪についての話である。狩猟採集生活は定常的に同じものを確保するという点では食糧確保の確実性は低かったが、逆に言えば今日の我々のようにイネやコムギ、イモなどの特定の作物に依存していなかった。凶作が起こってドミノ倒しのように飢餓に陥ることはなく、多様なものを食べている分、栄養状態も悪くなかったという。新生児の平均余命の数値は現代人よりも小さかったがある程度成長してしまえば今日の我々と比べて極端に短命だったわけでもないようだ。 一方農耕が始まって以降。コムギやイネなどの作物の栽培を始め、将来を見越して食糧を確保するようになった。凶作によって共倒れになるという危険もあったが、安定的に高エネルギーの食糧を確保できるようになったことは人口の増加に作用し、我々ホモ・サピエンスが地球上で75億を超える個体数を誇るまでになる礎となった。つまり、農耕がホモ・サピエンスの 種としての 繁栄をもたらした。 しかし農耕には負の側面も様々にあった。耕地を形成するにあたって森林を切り拓き野生動物の住処を奪った。増大し続ける人口を包容するために人々は田畑で働き続けることになった。(狩猟採集の社会にもヒトのヒエラルキーはあったものの)明確な身分というものを生み、奴隷というものが誕生した。特定の作物に依存することで多様なものを摂取しなくなりミネラルなどの栄養分が不足するようになった。などなど。 ここで問題にしたいのは種としての繁栄と個人の幸福・QOLというのは別個に考える必要があるということだ。農耕に従事する奴隷たちに「あなたたちが農耕を頑張ったおかげでホモ・サピエンスは将来地球上でもっとも繁栄を究めた種のひとつになりましたよ」と言っても何の慰めにもならないだろうし、現代ブラック企業でただ働き続けることに人生が忙殺されているサラリーマンに対しても同じことが言えるだろう。私たちは種の繁栄を目指しているのか、個人の幸福を高めることを目指している...

愛と幻想のファシズム

 愛と幻想のファシズム 村上龍 --- 激動する1990年、世界経済は恐慌へ突入。日本は未曽有の危機を迎えた。サバイバリスト鈴原冬二をカリスマとする政治結社「狩猟社」のもとには、日本を代表する学者、官僚、そしてテロリストが結集。人々は彼らをファシストと呼んだが…。これはかつてない規模で描かれた衝撃の政治経済小説である。(Amazon、「商品の説明」より) --- 上下巻で1,000ページを超える大作。 スポイルドベア、すなわち個体間の競争に敗れて人里などに現れたクマは射殺してもいいことになっているとし、それは人間にも適用されるべきというのがトウジの哲学だ。システムをぶっ壊し、死ぬべき者が死に生きるべき者だけが生きるという狩猟世界のルールに戻すというのがトウジの目的だ。 私の生まれた世界が狩猟社会だったら、私は物心がつくまで生きることができなかったろうと思う。だから、私はトウジの思想を全面的に支持することはできない。しかし、システムがなければ生きていけないのにシステムにタダ乗りしようとする人間に対して憎悪に近い感情はある。 要するに私たちは生きるということを知らない。戦わなくても生きていけるから、地を這いつくばらなくても生きていけるから、生きるということを知らない。グリズリー(ヒグマ?)は水を飲むためだけに何時間もかけて斜面を下りて沢に向かうという話が作中に出てきたが、私たちはそういうことを知らない。そんな私たちだから腐敗というものが起こる。 イデオロギーめいた話になってきたが、これ以上続けるのはやめておこう。とにかく、私はこの作品を挑発と受け取った。システムのなかでのうのうと生きていていいのか、気づいたときにはスポイルされているぞ、と。誇りを失わず生きていくためには野生動物の生き方も見習わなければならない。

【書評】ラブカは静かに弓を持つ

 ラブカは静かに弓を持つ 小説すばるで連載していた「ラブカは静かに弓を持つ」が9月号で完結した。 音楽著作権管理団体である全著連(われわれの知るところのJASRACに相当する)の職員の橘は、上司に命じられミカサ音楽教室に生徒として通い、教室で著作権が及ぶ楽曲が演奏されている証拠を集めることとなる。橘はチェロを習うことになるが、講師やほかの生徒と親睦を深めるうちに「スパイとしての自分」と「生徒としての自分」との間で板挟みになる。 ラブカはいわゆる深海ザメの一種である。この種は胎生で、(深海に生息しており生態があまりわかっていないため)人工飼育が難しく、正確な測定はなされていないものの、妊娠期間は脊椎動物中最長の約3.5年と見積もられている。作中では「この長い妊娠期間をもつ生物を長期間潜入するスパイと重ねたスパイ映画がある」と描写され(この映画の劇中曲をつくった人は有名なチェロ曲も書いている、みたいな流れでこの話が出てきたのだと思う)、橘もまたそれと自分とを重ね合わせる。「弓を持つ」は言うまでもなくチェロを弾く弓を手に取るという意味だろう。 橘の葛藤~結末までは"順当に話が進んだ"と感じる。逆に言えばひねりがないと感じる人もいるかもしれないが、個人的には「この作品はこれでいいのだ」と思った。

【書評】本と鍵の季節

  本と鍵の季節 米澤穂信 高校二年で図書委員の堀川が同じ図書委員で知り合った松倉とともに放課後の図書室に持ち込まれる謎を解こうと挑む、という形式。 六篇の短編となっているが、すべて地続きになっていて、(もう一度読むとしたら)それぞれの謎解きを通して現れる登場人物、とりわけ堀川と松倉の人柄には一層注目したいところ。 タイトルが示す通り、この物語では本と鍵が象徴的なものとなっている。たとえば、堀川と松倉が同じ図書委員という縁で知り合った点は、本によって二人は結びつけられたと言えるだろう(ふたりとも本はそれなりに読むものの読書家というほどではないらしいが)。また、二人が関わる謎にも本と鍵が関わってくるものが多い。 (以下、ネタバレというほどではないがこの本に興味を持った人にとっては興醒めになるかもしれないため注意) 「鍵」について少しこじつけ的な深読みをしてみると、これはもちろん物理的に金庫だとかロッカーの鍵を開けるという意味でも物語に関わってくるが、人のプライベートに踏み込むのも鍵を開けるようなものかもしれないと思えてくる。謎が持ち込まれるということはそれについて悩んでいる人がいるということだ。しかしながら、その謎を誰かに解いてほしいと思う一方で、それを解くために必要なピースとして個人の事情を詳らかに明かすことには抵抗があるという人も少なくない。また、金庫の中にあるものや、謎解きの手がかりとなる物はなにかとても"個人的な"物であるかもしれない。少しずつ答えに近づくなかで、依頼者の隠している個人の事情に勘付いたときに「鍵」を開けるのか否か。そういう視点を持ってもう一度読んで見るのもいいかもしれない。 "爽やかでほんのりビター"と宣伝される本書であるが、私個人としてはほんのりビターどころかかなりビターだと感じた。同じ著者の「ボトルネック」や「追想五断章」が好きという人は好意的に読めるのではないかと思う。

【書評】小説読解入門

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  小説読解入門 廣野由美子著 19世紀英国の地方都市を舞台としたジョージ・エリオットの傑作長編『ミドルマーチ』を実例に、「小説技法篇」で作家の用いるテクニックを解説。続く「小説読解篇」では、歴史や宗教、科学、芸術などの<教養>を深める11の着眼点で、小説の愉しみ方を伝授する。(帯の宣伝文より) ミドルマーチは「十九世紀を舞台にさまざまな人間ドラマが絡み合う社会を描いた絵巻のような作品」であり、地方都市ミドルマーチ近郊に住むさまざまな社会階級の人の視点を通して、(「小説技法篇」でいうところの"パノラマ"を多分に取り入れて)社会の動きや人々の生活というものを描いている。私もこれを読んだことはないのだが、本書ではあらすじがあるので、読んだことのない人も安心して手に取ってほしい。 「小説技法篇」で印象的だったのは「ミステリー/サスペンス/サプライズ」について言及している部分だ。ここでは「小説の諸相」という1927年にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジでエドワード・モーガン・フォースターが行った講義をまとめた小説論集(wikipediaより)を引きながらストーリーとプロットの違いを説明している。 ストーリーとは、出来事を起こった「時間順」に並べた物語内容。他方、プロットとは、物語が語られる順に出来事を再編成したものを指す。 私たちはストーリーならば「それから?」と尋ね、プロットならば「なぜ?」と問う。 そして、 フォースターによれば、優れた小説とは、たんに次がどうなるかという読者の原始的な好奇心のみを刺激する「ストーリー」ではなく、出来事の配列を組み替えることによって深い意味合いを与え、読者に知性と記憶力を要求する高度な「プロット」の形態を備えたものである。 としている。 こうして説明されてみれば、自分の読書経験に照らしてもこれは非常に納得のいく説明でわかりやすいのだが、このように意識して小説を読んだことがあまりなかったため、感じるところは多かった。優れた小説というのはプロットの形態を備えている以上、ジャンルを問わず「ミステリー性」・「サスペンス性」を帯びている。こういった視点を持って意識的に小説を読んでいくとこれまでとは違った楽しみを見つけることができるのではないかと思った。 「小説読解篇」では「心理」のパートが特に印象的だった。この...