温故知新

小学校を卒業するとき、中学校を卒業するとき、高校を卒業するとき、必ずと言っていいほど式辞では「目まぐるしく移り変わる現代社会において君たちは~」だとか「この激動の時代にあって君たちに求められるのは~」といった話をされた。大学の入学式でもそういった話はあっただろう。

確かに、21世紀に入ってグローバル化は大きく進展したのだろう。格安航空会社によって少なくとも隣国の韓国や台湾はかなり身近な場所となった。東南アジアにもかなり安く行ける。外国語を勉強する機会もツールも増えた。海外の文化に触れる機会も格段に多くなっているに違いない。遠隔地の人とコミュニケーションをとるのもかなり簡単になった。携帯電話の普及、光回線インターネットの普及、そしてスマートフォン。1990年代からすれば想像もできなかったような変わりようで、それを10年や20年で成し遂げたのは確かに驚嘆に値する。

一方でこれは有名な話であるが、家庭用コンピュータの登場からおよそ10年の平成元年においてワープロ専用機のメーカーは概ね「ワープロは文章を書く機械として特化されているからパソコンに取り込まれずに残る」と考えていたという(https://dime.jp/genre/644604/)。今思えば完全に的はずれな予想だが、我々はこれを笑うことはできない。こういったエピソードから得られる教訓は「昔の人は馬鹿だった」ではなく「そもそも我々は先を見通すのが下手」である。そんな私たちにとって、世界というのは常に「激動の時代」に思われるに違いない。

1945年の焼け野原となった東京で、20年後にオリンピックが開催されると考えることができた人がどれだけいただろうか。石油危機を、冷戦の終結を、ソ連の解体を10年20年前から予想していた人はどれだけいるだろうか。人類が農耕ばかり行っていた時代はいざしらず、国家・産業・科学が明確に打ち立てられて以降は世界は目まぐるしく変わり続けているに違いない。今だけが特別な時代というわけがない。

かなり脇道に逸れた。

「この激動の時代において君たちに求められるのは~」と語る校長やPTA会長は時代に適応する能力を私たちに求めていたのではなく、何かを求めていたとすれば「時代に適応する能力が必要という議論そのもの」だ。もしかするとそれを話すだけでインテリを気取れる、児童生徒を教育したと自己満足できるというだけの動機かもしれない。グローバル化・情報化が進んだ現代だからこそ求められること、というのはおそらく些細なことに過ぎない。いつの時代も人間に求められてきたのは、とどまるところを知らない欲求と他者との利害に折り合いをつけること、善悪の分別をわきまえること……など、孟子の説くところの四端を養うことであり、そのための教育だ。孟子荀子が性善性悪を説いたのは2000年以上前だが、それだけの時間があってもなお彼らが理想とした社会に到達できそうもない。そこに近づいているのかもわからない。

新しい価値観が説かれるとき、背後に別の価値観が隠れる。今と未来を知りたいとき、すぐさま新しい価値観に飛びつくのではなく、過去に立ち返ること、基本に立ち返ることが必要だ。


なんか思想強めになってしまった。こういうことがやりたかったんじゃない。花鳥風月を愛でたいだけだったのに。

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