禽獣

 伊豆の踊り子 川端康成(新潮文庫)を読んだ。表題作のほかにも「温泉宿」「抒情歌」「禽獣」を収録していたが、特に印象に残った禽獣について書く。

主人公はなにやら文化芸術の関係者であり、あくせく働いている様子はない。題にあるように禽獣つまり鳥や獣を飼い、女中を雇い、悠々自適とまでいうかはわからないが比較的余裕のある暮らし向きのようである。

印象的なのは彼の動物に接する態度だ。塀の外で子どもが騒いでおり、何があったのかと覗いてみると、ゴミ捨て場に雲雀のヒナがいた、育ててやろうと近づいて子どもの話を聞き、向かいの家の人間がそれを捨てたと知ると

その家には、三四羽も雲雀を飼っている。ゆくすえ鳴鳥として見込みのない雛を棄てたのであろう。屑鳥など拾ってもしかたがないと、彼の仏心は忽ち消えた。

となる。また、次のような一節もある。 

  だから人間はいやなんだと、孤独な彼は勝手な考えをする。夫婦となり、親子兄弟となれば、つまらん相手でも、そうたやすく絆は断ち難く、あきらめて共に暮らさねばならない。おまけに人それぞれの我というやつを持っている。

  それよりも、動物の生命や生態をおもちゃにして、一つの理想の鋳型を目標と定め、人工的に、畸形的に育てている方が、悲しい純潔であり、神のような爽やかさがあると思うのだ。良種へ良種へと狂奔する、動物虐待的な愛護者達を、彼はこの天地の、また人間の悲劇的な象徴として、冷笑を浴びせながら許している。

 犬が妊娠・出産し、やるべきことはわかっていたのにそれをせずに、すぐさま全部の仔犬を死なせてしまったときも

彼は仔犬が死ねばいいと思ったわけでもなかった。だが、生かさなければならないとも思わなかった。それほど冷淡だったのは、彼等が雑種だからであろう。

とある。彼が冷淡というか理想主義的であるのは動物に対してだけではない。千花子という彼が一時関係を持った舞踊家が妊娠出産を経て"肉体の力はげっそり鈍って見えた"ときには「子供がほしかったんですもの」と言う彼女に向かって 

「育てる気か。そんな女々しいことで、一芸に生きられるか。今から子持ちでどうする。もっと早くに気をつけろ」

などと言う。かつて千花子と心中しようとしたときにも、裾をばたばたさせるというから足を縛ってくれ、という彼女の註文に応え、彼女の足を縛っているときにその美しさに驚いて

「あいつもこんな綺麗な女と死んだと言われるだろう」などと思った。 

という。心中相手も結局は彼にとって舞台装置にすぎないのだろうか、と感じ、彼のそのエゴイズムがただただ恐ろしいと私は思った。 巻末では三島由紀夫が解説を寄せているが、「『禽獣』には小説家という人間の畜生腹の悲哀が凄愴に奏でられている」とある。この解説では人間嫌悪的態度、自身も人間であるがために制作が純粋な営みたりえない苦しみについて書かれているが、先述の例に見られるような理想主義的態度、エゴイズムも芸術家の制作心理であると読むこともできよう。

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私のもっとも率直な感想としては、「理想を他人(や動物)に押し付けるな」というものがある。自らに"理想の自分"を課して苦しむのはけっこうだが、他人に理想を押し付け、強制するようなやり方は害悪としかいいようがない。理想と現実は対義語であり、理想がそのまま現実となるということはまずない。もちろん、理想を追い求めるからこそ偉大な芸術家というのは生まれるのだろうが、理想を追う覚悟もなく、地道に物事を積み上げていきたい自分には他者への寛容さのほうがより大切に思えた。寛容さというのは日頃から意識していることではあるが、感情的になり冷静さを失うと私も他者に多くを求めてしまう(ある意味で理想の押し付け)。他山の石としたい。

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