歴史と現在について

 歴史の連続性を肌で理解していなかったというか、歴史と現在が地続きという感覚がなかった。

 社会というモノの構造を設計し、形にして、問題が現れる度にまたそれを壊し、再び形にして……という試行錯誤が歴史だと思っていた。そして、試行錯誤の結果、ある程度完成に近い状態が現在だと思っていた。自分が生きている現代の世界は、歴史の成果物を運用していく過程であり、設計と試行錯誤の必要はない過程だと思っていた。

 しかし実際には、社会は未だ完成には程遠い段階にあるようだ。数千年の試行を経ても想定されていない事態、想定を遥かに超える事態がまだまだ多い。そして、そういった事態が起きてしまったときに、社会はそれまでとは大きく変容してしまう可能性がある。

 考えてみれば、私たちに世界について最も説得力のある解釈を与えてくれる科学でさえ、定説が覆されることは多いし、重要なトピックが仮説止まりだったり、間接的な根拠までしか得られていなかったりする。数千年という時間は世界を理解するのに十分なものではない。

 そもそも試行の結果の蓄積が数千年に及ぶと考えることの妥当性さえ怪しい。試行に関する情報が広く人々に届かなかった時代は同じ試行があちこちで繰り返されていただろうし、試行の記録が途絶えてしまったりもしただろう。政治や経済、科学技術に関して、現代とある程度の共通性を見出そうとすれば、試行の蓄積はせいぜいが第二次世界大戦から現代まで、時間を幅広くとろうとしても市民革命や産業革命が興った18世紀まで遡るのが限度だろう。80年、あるいは300年という時間は世界・人間を理解するにはあまりにも短い。

 「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら」なんて言葉もあるが、数センチメートル、数秒の誤差で社会はその姿を大きく変えてしまうだろうということを感じているし、歴史と現在が地続きで私の生きているこの瞬間もやがて歴史として語られるということを妄想している。

 何に言及しているかは察していただきたい。大袈裟な話になってしまったが、私は自分が生きるこの社会を、運用保守の段階に過ぎないと本当に考えていたのだ。

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