死なないこと、楽しむこと、世界を知ること の前提

    以前、人生において大事な3つのこと、「死なないこと、楽しむこと、世界を知ること」という話を書いたことがある。私はこの言葉が好きで、道に迷ったときに思い出したりして、ひとつの指針としている。

    最近はこの3つの優先順位をインストールする以前の、重要な前提条件があるな、などと考えたりもする。

それは「選択を他人に委ねないこと、自分で選び取ること」だ。

これは当たり前のことに思えるかもしれないが、物事を自分で判断しない人はけっこういると思う。生物として「死にたくない」という本能はあるから、「死なない」ための選択は急場でできるかもしれない。ただ、何かを決断することは(それが「何を食べるか」「どんな服を着るか」という小さなことであっても)疲れを伴うものだというから、重要なことについても、ついつい自分で考えることを放棄してしまう(「決断忌避」, Decision avoidance)人もいるかもしれない。

たとえば、「○○さんがそう言ったから」「みんながそうだから」

というようなことを言う人が、たまにいる。もちろん、周囲の傾向や、誰かに相談した結果もらったアドバイスは決断するうえで一つの材料になるが、「自分はそうしたくなかったのに」というニュアンスでそう言っていては本人が本当に心から「楽しむ」ための選択・「世界を知る」ための選択はできないだろうと思う。

    もちろん私だって、自分の生き方に関わるような決断に迫られたとき、誰かに相談することもある。そのときに投げかけられた言葉を参考にして検討する。そして決断する。それが思うような結果にならずに、自身の決断を後悔したこともある。しかし、思うような結果にならなかったことを、周囲や相談した人のせいにしようとしたことはほとんどない。


    「あれは自分の意志じゃなかった」という気持ちもわかる。しかし、純度100%の"自分の意志"なんてどこにもないとも思う。

たとえば、私は高校時代の文理選択で理系を選んだ。これには私の父が電気工事の仕事をしていたことが少なからず関係しているだろう。兄も理系を選んでいたことも無関係とは言えないだろう。仲の良かった友人も理系を選ぼうとしていたことも、その時点では数学でそこそこの成績をとれていたことも、影響しているだろう。

    こう考えると結局、私がよく言う「責任」の話になってくる。

"100%思った通りになるわけではありません。あなたは周囲の環境や人の言葉から影響を受けています。その上で、これから決めることはどんな結果になろうが『あなたが選び取ったこと』として扱われます"という念押しがあるものだと思わなきゃいけない。これに耐えられない人もいるかもしれない。しかし、このプロセスを経ないと選択の結果を心から楽しむことだってできやしないだろう。

    私はチキンで、ビビリで臆病な性格だ。前段落の文言だって自分で書きながら「怖い話だな」と思った。だからこそ、私は重要な決断の際には判断材料を全力で収集する。時間をかけて覚悟を決める。「あれだけ情報収集をして、必死に考えて、ハズレだったら仕方ない。」と思えるくらいに、全力で情報を集め、全力で考える。

「後悔のない選択を」なんて言う人がいるが、私はそんなものはあり得ないと思っている。「隣の芝生は青く見える」ように、別の選択をした、空想世界の自分と比較してしまって、少しはそちらを羨ましく思ってしまうだろうと考える。だから私は「後悔はするだろうけど納得できる選択をしよう」と思っている。


話が広がりすぎた感じもあるが、楽しむため、世界を知るためには「自分で選ぶこと」が必要で、

「自分で選ぶ」ためには結果の責任を他者に求めないことが必要で、

責任を他者に求めないためには、納得感を持つべく全力で判断材料を集め、全力で考えること。

そして、もっと突き詰めると「情報収集能力/判断能力に欠けていた自分」に納得するために日々自分を高めていくことが必要なのだろう。

陳腐な結論になってしまったが、自戒を込めて、毎日しっかり生きていこうと思った。




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