猜疑心は罪
普段あまり人に言えないようなことを書いた。こういうことは誰にでもあるのかもしれないし、逆にこういうことを考えている人はあまりいないのかもしれない。読んで思ったことがあれば伝えてくれると嬉しい。
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10代の半ばごろ、「人の思考は深層心理(?)や、他者の何気ない一言から無意識のうちに影響を受けている(言葉は無意識の思考から発されることがある)」、「人は自分の見たいものだけを見ようとし、信じたいものだけを信じようとする」ということをはっきりと認識して以来、自分の思うことに対して精神分析紛いのことをするのが癖になってしまっていた。
たとえば、知人と喧嘩したとする。そして、まず
- 「こんな喧嘩をしてしまったのは7:3で相手の方に非がある」
- 「しかし、自分を正当化するほうに流されてしまうのが人というもの、本当は5:5くらいなんじゃないか」
- 「本当は『自分が譲歩して大人の対応をしてやった』と内心で優越感に浸りたいのではないか」
と考えたとする。
それに対して、
と考える。
さらにこれに対して、
と考えたりする。
「優越感に浸りたいのではないか」はさすがに捻くれすぎだと自分でも思うが例だから許してほしい。これのやっかいなところは、論点を少しずつずらしていけば思考が延々とループするところだ。上の例であればさらに、
「『優越感に浸りたいのではないか』という疑いは、自罰的な自分に酔っていることから生じているのではないか」
→「では、やはり相手に非があるのか、いやそれは自分に甘すぎではないか?」
などというふうに続いていく。
これをする以前から、自分には思考が極端になる部分はあったかもしれないが、僕は疑いが行き過ぎて思い浮かんだ自分の考えに対して、まず否定から入るのが癖になってしまっていた。こんなことをしているから、自分が考えていること、見ているものがわからなくなってしまった。僕の愚かしく、最低だったところはこれを自分の思考だけでなく、他人にまで拡張しようとしたところだ。
相手の言葉の裏にはどういう意図があるのか、どんな要因が相手にそう言わせたのかを疑ってかかるようになっていた。しかも、「相手も僕の言葉から何かを読み取ろうとしているのかもしれない」とまで考えて、自分に対しても更に強く疑いの目を向けたりした。
他人の考えを見透かそうとすると、相手を傷つけかねないと僕は思う。中学から高校にかけて、担任の教師やスポーツの指導者と衝突するなかで、
「お前はあのときAと言った(、この言葉は額面通りに受け取れば何ということはないが)、その言葉が出てきたのはBだと内心で思っていたからだ」「お前はAをした、そうしたのは本当はBだと考えていたからだろう」
ということを言われたことが何度かあった。少なくとも僕は自分の意識しうる範囲ではBだなんて考えていなかったから、不意に自分の内心の邪悪さを指摘されたことに少なからず傷ついた。自分に対してさえ「自分を正当化している」「甘えているのではないか」と心を傷つける方向に傾いているのに、同じことを他人にして、それを言葉にしたときに相手を傷つけないはずがない。記憶には全然残っていないけど、僕も猜疑心が高じて誰かを傷つけてきたかもしれない。
自分に対してであれ、他人に対してであれ、こんなことをすることで得られるものなんて大してない。
思ったことは口に出せばいい。良いと思ったら素直に良いと言えばいい。悪いと思ったら多少言葉は選びつつ悪いと言えばいい。
他人の言葉は額面どおりに受け取ればいい。「頑張ったね」と言われたら「確かに俺がんばったよな~」って思えばいいし、「偉いね」と言われたら「俺は偉いのか~よくやってるな~」と思えばいい。
ということを、きのうのよるねるまえにふとんにもぐりながらかんがえました。
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