アンチ個性
先日、内定式があった。
オフィスがあるビル内の、貸会議室へと我々内定者は詰め込まれた。
日頃個性だとか自分らしさだとかそういう概念に反発しているくせに、こうして黒リクルートスーツという画一的な服装の人間が一箇所に詰め込まれると確かに「歯車になるんだなあ」というか、ちょっとした圧を感じた。
式典が始まる前に、ちょっとしたリハーサルのようなものがあって、起立着席礼の動きを合わせるような練習をした。自分のなかの多動成分が暴れだしそうでなかなかにヒヤヒヤした。入社時のビジネスマナー研修みたいなやつに適応できるだろうかと、かなりの不安を覚えた。それはそうと、就職活動でいろいろな企業の新入社員受け入れ体制、研修制度を見聞きした限りでは、コロナ禍のおかげで外部委託の合宿式の新入社員研修というのは軒並み廃れているという印象を受けた。そういう意味では自分も比較的恵まれた時代にいるのかもしれない。
偉い人の話を聞きながら、「まあ、誰にでもできる仕事だよな」とか「別に俺じゃなくてもいいよな」とかそういう感情が心に湧き上がった。「自分にしかできないことをしたい」とか「オリジナリティのある人間になりたい」みたいな青臭い感情があることを恥じた。"アンチ個性""アンチ多様性"を標榜しているのに恥ずかしいものだ。しかしよくよく考えてみれば、医者とか弁護士だとか高度な技能や学識を必要とする職業でもオリジナリティのようなものを発揮するような場面は限られるだろうし、そのような人たちでさえも、言ってしまえば大抵の場合「替えがきく」のだ。この国に優秀な人たちがたくさんいてよかった。
視点を変えて考えてみれば、「その職業を選び」「その会社に所属し」「その業務にアサインされた」という程度のことも、オリジナリティというか代替不可能性の欠片くらいにはなるのだ。アンチ個性が回り回って「存在しているだけでオリジナル」みたいな結論になってしまったのは面白い。
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式典は数十分で終わり、そこからは内定者同士の交流のためのワークと食事会だった。初対面の人間とたくさん会って疲れたが、けっこう普通に喋ることができて驚いた。「自分はどうしようもなく陰キャで、コミュ障で……」というセルフイメージを持っていた(いる)わけだが、今までの人生でそれで致命的な失敗ばかりをしてきたのかというとそうでもなく、なんやかんやで「やってみたらそれなりにできた」という経験のほうが多い。自分の思い込みよりも観測した事実をもとに自分に対しての評価を下すべきだよなと思った。
働き始めたら今まで以上に自分の無能さを呪い、他の人の優秀さを羨むのだろうという予感はあるが、そこで打ちのめされずにむしろ鬱屈した気持ちをエネルギーに換えてやっていきたい。なんせ私は銭が好きなのだから。
なんせ私は銭が好きなのだから なんて良い言葉だろう
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