内心を裁くのとレッテル貼りはマジでやばい
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
ーーーマタイ福音書 7章 1節, 2節
表題の通り。内心を裁くのとレッテル貼りはマジでやばい。
自分を高潔な人間と言うわけではないが、人の内心を裁かないようにしているという点では自負がある。この理念は昨年4月に書いた記事(猜疑心は罪)でも述べている。
自分が悪意を持って他人を傷つけようだとか他人を苛立たせようだとか考えたことはほとんどないから、他人もそうであると信じている。行動の陰にあるのは(邪悪でもなんでもない)やむを得ない事情か、人間誰しも持つ弱さや甘え(誰もが持つ性質であるからそれを咎めるのも野暮)だと思う。
こういう理念を持ったり、それを他人に期待したりするのにはもちろん「自分が咎められたくないから」という、いわば私の甘えや弱さもある。しかし、思ってもないことで人に咎められたくないのは誰だってそうだから、私のこの弱さ・甘えも許容されるべきだ。
一度「レッテル貼りモード」「内心裁きモード」に入ってしまうと、真実が一切見えなくなってしまう。"邪悪な内心"を前提としてその行動が引き起こされたメカニズムを考えると、一応は一切の隙がない理屈を作り上げることが可能で、(前提以外は)文字通り完璧な論理なので、自分の中でますます確信を強めてしまうからだ。
内心を裁くのとレッテル貼りはマジでやばい。内心裁きとレッテル貼りの習慣化はポルノ中毒みたいなもん。
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"内心を裁かない"自負は割とあるが、ここから先は自戒を強く込めた話になる。
そもそも、他人を咎めたり、レッテル貼りをしたくなるのは、他人が自分の期待した欲求を満たしてくれないからだ。欲求が満たされないことに不満を持ってしまうことは仕方ないだろう(これも人間誰しもが持つ性質だと思う)。しかし、その先の責任を相手に丸投げしていないかということが問題になる。責任を負わないと不満を蓄積しやすいスパイラルに入りやすいのだと感じる。何も背負わずに無条件で自分の欲求が満たされると思ってはいけない。
自分の欲求や不満を伝えていただろうか。そして、その伝え方はわかりにくくはなかっただろうか。仮に自分に問題がなかったとして、相手の内心を裁いて、レッテルを貼って罵って、ほんとうにそれで満足だろうか。そうして人を切り捨ててしまえば一旦は溜飲が下がるかもしれないが・・・・・・。
自分の場合、天邪鬼なところがあって、伝え方が遠回りになりがちな自覚はある(伝わらないことを相手のせいにして感情を爆発させたりはしない……とは思うが)。
100回くらい言っているが行き着くところは結局、寛容の涵養が肝要、その精神を忘れてはいかんよう。
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