「推し」文化批判論

 最近はもう至る所で聞く「推し」という言葉。先日はNHK のニュースで、北海道のとある保育園が「推し休暇」なる休暇制度を設けたことが紹介されていた(https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20221014/7000051531.html)。そんな「推し」文化ではあるが、個人的にはどこか気持ち悪さも感じることがある。その理由を考えてみた。筆者の漠然としたイメージや偏見(私怨)が大いに介在しているので悪しからず。

<そもそも推しとは>

weblio辞書の「実用日本語表現辞典」には

人やモノを薦めること、最も評価したい・応援したい対象として挙げること、または、そうした評価の対象となる人やモノなどを意味する表現。

とある。

また、wikipediaなどでは「主にアイドルや俳優について用いられる」とある。ここでは後者寄りの意味として「薦めるたい、最も評価したい・応援したい対象となる芸能人やそれに準ずる人物、キャラクター」くらいを想定しておく。

<さまざまな観点から>
●「余裕ある人間の道楽だろ」という視点

推し活へののめり込みの度合いも人によって様々だと思うが、これはのめり込みの度合いが小さい人には当てはまらないだろう。

経済成長の停滞に関してはもはや論ずるまでもない我が国であるが、特に苦境に立たされているのは多額の社会保険料負担を強いられる現役世代であり、若者の所得や貯蓄の(平均ではなくより実態を掴みやすい)"中央値"のデータに関してはもう目も当てられないものだ。そんな中、グッズを買い漁ったりイベントに奔走している人間はどのような層なのか。そう考えると私は「所詮は余裕のある人間の道楽だろう」という目を向けてしまう。たとえるなら、身ぎれいな老人が「いかにも」な洋犬を散歩させている様を見ているような気持ち(わかりづらい)。

●システムにハックされているという視点

とはいっても、推し活をしている人間全員が経済的に余裕のある人間とは到底思えない。生活を切り詰めながら資金を捻出しているような人もいるに違いない。そういう人にとっては「推し」という概念がある種浪費を正当化するためのものとなっているのではないだろうか。それを映しているのが「推しのため」だとか「推しに貢ぐ」とかいう言葉なのだろう。

しかし、これはその人に忍耐力がないというわけではなく、コンテンツの運営者が「"推し"は金になる」と気づいてそういうシステムをデザインしているのだと思う。インターネットの普及とそれに付随する様々なサービスの出現により、メインのコンテンツ(俳優などであればドラマや映画、歌手であれば楽曲の配信やライブ)以外も金になる、金にしようという意図が伺える。Youtubeなどでのライブ配信はその最たる例で、Vtuberなどではある種ファン同士の競争もあり、高額スパチャが飛び交う様は見ていられない(実際私は見ないのだが)。投げ銭以外にも、通販の拡大や、映像コンテンツプラットフォームの整備でグッズ販売や映像販売がしやすくなったというものも挙げられる。

●応援したいってなんだ?という視点

先程の話と連続するが、スパチャ(投げ銭)が原因でクレジットカードに高額請求がきた、という話は少し調べれば簡単に見つかる(https://www.kokusen.go.jp/mimamori/kmj_mailmag/kmj-support150.htmlなど)。冒頭で述べたように、「推し」には「応援したい」という意味合いもあるらしいが、(URLの例は中学生が親のクレジットカードを勝手に使ったという例だが)一般労働者が月収100万円をゆうに超える配信者を「応援する」ってどんなお笑い?赤スパの辛辣コメントで泣いたVtuberに200万の励ましスパチャてバカなん??

●身近な人間を蔑ろにしてしまうのでは?という視点

過度なのめり込みは身近な人間を遠ざけてしまうという危惧がある。これは私が比較的家族の時間というものを大切にする家庭で育ってきたこともあり、人生の中で形成されてきた価値観による違いでもあるとは思う。

たとえば私の母はサザンオールスターズがけっこう好きらしく、車で流すのは専らラジオだがサザンオールスターズのCDは何枚か車に積んでおり、気分によってはラジオではなくCDで音楽を流すらしい。しかしこの母が、家には至る所にポスターやグッズを飾り、イベントがあれば遠方だろうが所構わず出かけていくというような人だったら、私と母の関係は今現在のそれほど良好なものではなかったのではないかと思う。

ただ、私の価値観がかなり保守的なものであることと、(推し活をしているメイン層と考えられる)20代30代で単身者・未婚者の割合が大きいことを考えるとこの視点はクリティカルなものではない。逆に考えると、結婚や出産が推し活を辞める契機になりうる(それでも続けるのは相当なのめり込み)のではないだろうか。

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ここまでを一度まとめてみると、「推し」の概念というよりはのめり込みの度合いが大きすぎる人に対して引いてしまう、という感じのほうが強い。しいて言えば、単に「好き」と言った場合には必ずしも含まれない「応援したい」というニュアンスには気持ち悪さを感じるシーンがある(配信者に対しての投げ銭が最たる例)。また「人に薦めたい、広めたい」という成分に関しても、プッシュが強すぎると引いてしまう。そして、これらが合わさってなにか宗教的なものを感じてしまう。


この荒涼とした世界で、精神的な安らぎを求める気持ちはわかるが、場合によってはそれ以上に失うものがあるということを覚えておきたい。

というかそこまで必死に追いかけなくても、精神的な安らぎを与えてくれるものは手の届く範囲にあったりすると思うのだが、見える範囲で1番いいものを欲してしまうのが人間なのだろう。ゲーム実況動画やオンライン対戦の出現により「学年で1番スマブラが上手い」ことの意義が薄れたようなもの。

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