憎まれ口を恐れるな
今の世の中の状況に関わることでもあるし、私がこれからどのような生き方を選択していくかという点にも関わってくることでもあるのだが、「他人と衝突することから逃げるな」という思いが数年前から湧き上がっていて、特にこの1年ほどから強く募る。
古市憲寿氏「正直、甲子園は観ないんだけど」中止決定に高野連バッサリ「あきれている」― スポニチ Sponichi Annex 芸能
もう2年以上前の記事だが、ずっと胸につっかえている言葉がある。
>>「正直、甲子園は観ないんだけど」と1本目の投稿を書き出した古市氏。「あらゆる可能性を検討した形跡もなく『中止』という大人にとって一番楽な決定をした人々にあきれている。本当に中止するしかないなら、考えられる対案が全部ダメな理由を専門家交えて示して欲しいよね。他のスポーツ競技も同じ。」と書き込むと(以下略)
大会が中止という判断そのものが正しいのか、間違っているのかは当時の私にはわからなかったし、今でも肯定も否定もしない。しかし、本当に「あらゆる可能性を検討」せずに下した決断だったとしたら、議論を尽くさずにした判断だったとしたら、それは確かに「一番楽な決定をした」と言えると考える。
当時の状況を思い出してみると、新型コロナウイルスの感染拡大が始まってからまだ半年に満たない時期で、わかっていることもかなり少なく、不安を抱いている人が今よりも格段に多かっただろうと思う。もちろん当時高校3年生の部員やその家族など開催してほしいと強く願う人もいたのだろう。しかし中止という判断をして「なんで中止にしたんだ!!」とクレームを入れる人よりも開催するという判断をして「なんで中止しないんだ!!」とクレームを入れる人のほうが圧倒的に多いだろう、という素朴な予想には多くの人が頷くことと思う。
そういう意味で、高野連は(球児や彼らを応援する家族さえ泣き寝入りしてくれれば)どこにも角が立たない、逃げの判断、楽な決定をしたのだと言える。
そういう判断の何がいけないのかといえば、軸がぶれるからだ。高野連の定款には「この法人は、日本学生野球憲章に基づき、高等学校野球の健全な発達に寄与することを目的とする。」とあり、学生野球憲章には「学生野球は、各校がそれぞれの教育理念に立って行う教育活動の一環として展開されることを基礎として、他校との試合や大会への参加等の交流を通じて、一層普遍的な教育的意味をもつものとなる。」とある。教育的意味をもたせる上で重要な機会である大会をあっさりと中止したことを受けて、「それを決めるときに、高等学校野球の健全な発達に寄与するという理念と向き合ったのか?世間からのバッシングを避けることを主に考えていたのではないか?」と疑問が投げかけられてもおかしくはないように思う。
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高野連が悪者みたいな書き方になったが、あくまで2020年の選手権大会の中止と古市氏の発言を例として「憎まれ口を恐れない」ことを考えてみた、という話だ。
批判を受けることは怖いが、日和見的な判断を繰り返して収拾がつかなくなるほうが問題だ。もちろん批判のなかにも的確に情報を示し、論証しているものもあるだろうから、参考にはしつつ、信念をぶれさせずに決断することが必要だ。憎まれ口を恐れない、他人と衝突することを恐れない、そんな大人に私はなりたい。
360°どこにも角が立たない決断、衝突を回避しようとする判断はしばしば逃げの判断であったり楽な決定であったりする、これは心の片隅に刻んでおきたい。
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