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6月, 2021の投稿を表示しています

時代遅れ?

 週末はマンガワンでラストイニングを一気読みしてました。 印象に残ったのは春日野大栄の前監督(のちに総監督)の話。 いわゆるスパルタ指導で強豪校を長年率いてきたが、時代が変わるとともに生徒の気質も変わって父母会などとも対立し退任することになった監督。 体罰や理不尽なしごきを肯定するわけではない(少なくとも体罰には全面的に反対だし、しごきもしごく側としごかれる側にある程度の信頼関係が必要だと思う)が、相当に出来た人物でもない限り大人から締め上げられる経験が必要というか、そうされないとわからないようなこともあるよなと思いました。 冷静かつ粘り強く諭して、道徳や社会の構成員としてのあり方を教えるのが理想なんだろうけど、現実としては上から強く抑えつけることで社会の秩序が保たれている(そうでないと保たれない)部分もあると思うんですよ。 こんなふうに思う僕はハラスメントやいわゆる"老害"の予備軍ですかね?

寛容の涵養

 寛容でありたい。 ただただそう思う。 しかし寛容マインドで接することが後々になって却ってあれは冷酷だったなとなることもある。寛容と無関心は表裏一体だと思う。 そういうときは相手に提案とかお願いをする形になるのだろうか。「命令」したうえに「お前のために言ってやってるんだぞ」とか恩着せがましかったら最悪だ。 いずれにせよ相手との関係をしっかり考えなければならない。関係というのは上司と部下、先生と生徒というように明確に決まったもののことでもあり、どれだけ親しいかという話のことでもある。関係によって相手に通じる言い方というのも変わってくる。

箸が転んでも悲しい年ごろ

 箸が転んでもおかしい年ごろ、なんて慣用句があるけど僕はもうずっと何年も箸が転んでも悲しい年ごろだ。 まだ眠いのに朝が来るのも、寝たいときになかなか眠れないのも、好きなプロ野球のチームが負けるのも、帰ってから朝のごみ出しを忘れたと気づくのも、冷蔵庫の中で玉ねぎが干からびているのも、食器用洗剤を買い忘れたのも、漢字が思い出せなくなっているのも、休日にやることがないのも、夜の7時を過ぎてもまだ外が明るいのも、自分に友人がいないのも、ミスタイプすうrのも、字が汚いのも、スマホのバッテリーの減りがはやくなってきたのも、読書に集中できないのも、好きだった歌をもうずっと聴いていないのも、デスクトップにファイルが増殖しつづけるのも、それをなんとかしようと作った「一時ファイル置き場」というフォルダが肥大し続けるのも、もう6月が終わるということも、邪なことを考えてしまうのも、何週間も床の掃除をしていないのも、どうでもいいメールの通知にいちいち反応するのも、全部が悲しい。

今日の怪文

 昨日は散歩をした。8キロほど歩いた。 歩きながら色々考えた? 考えさせられた? 考えざるを得なかった? どういう成り行きで? 因果で? きっかけで? その考えが浮かんだのかはわからない、記憶にない。とにかく不意に「いったい自分は何をやっているんだ?」という気持ちが湧いて一人で苦しくなった。ここ数年の自分の 心構えに? 言動に? 行動に? 生活に? すべてに? すべてに。 とにかくここ数年の自分のすべてに腹が立った。自分には何もない。志もなく、能力もなく、仲間もいない。苛立ちだとか妬み嫉みだとか汚い感情を自分のなかでひたすら循環させて増幅するばかりだ。そしてそんな自分に気がついてさらに気が狂いそうになる。気が狂いそうになるのを飼いならさなければならないと思う。 狂う? 狂わない? 投げ出す? 投げ出さない? 諦める? 諦めない? 諦めない。 猛獣使いにならなければならないと思う。 折り返し地点の公園にはハトと花と木とヒトとベンチがあった。ベンチに腰かけ、空を見て、木を見て、花を見て、土を見て、ため息をついた。 ハトを見ていると気持ちが落ち着いた。木とハトの二者択一を迫られたときはハトを選ぼう。 花を見ているとさらに気持ちが落ち着いた。ハトと花、どちらかを選ばなければならなくなったら花を選ぼう。radikoでラジオを聞き始めるとさらに気持ちが落ち着いた。花とラジオの二者択一を迫られたときはなんとかして両方選ばせてもらおう。 自分はよく顔が怖いだとか近寄りがたいと言われるが、草木や花を眺めたり好きなラジオ番組を聞いたりしているときは優しい気持ちになれている気がすると自分では思う。自分を優しい気持ちにさせてくれるものを大切にしよう。 この日はゴミ袋を携行して、道に落ちているゴミを拾いながら歩いた。来世のために徳を積まねばならないからだ。というのは半分冗談で、勇気がない人間になるのが嫌だからだ。ゴミに気づいていないのはともかく、ゴミに気づきながら見ていないふりをするのは勇気がないということだ。それが、時間に追われている通勤や通学時ではなく気ままな散歩のときならなおさらだ。 義を見てせざるは勇なきなり、というのはそういうことなのではないだろうか。 できた人間だとかキレイ好きだとかそういうことはどうでもいいだろう。ただ、勇気がないと思われるのは、腰抜けだと思われるのは我...

板チョコ

 子どもの頃、板チョコにそのままかじりつくのに憧れていた気がする。単純にお金がなかったから、20円とか30円のお菓子をよく買っていた。少しお金を持つようになった中学生以降はとにかく常にお腹が空いていて、100円あったら手軽に腹を満たせる惣菜パンばかりを買っていた気がする。 今でもお金に余裕があるわけではないが、100円の板チョコを買うのに気苦労するほどでもない。運動もあまりしなくなって、手軽にカロリーを多く摂取できる惣菜パンを買う必要もなくなった。今こそ、板チョコにかじりつくべきときなのだ。 しかし、事態はすでに手遅れだった。甘いものを一度にたくさん口に含むと気持ち悪くなる歳になってしまい、結局割りながら1ピースずつ食べている(貧乏性が染みついているということもあるが)。 夢は夢のまま終わるものだ。

頽廃空虚的現代怪異譚_No.1「信号機と怪異」

信号機(交差点)は現代の怪異に好まれるスポットのひとつである。 その理由としては、交通事故が起き人が命を落とす場所であるということ、横断歩道を渡ることが三途の川を渡ることに通ずるのではないかということ、その動きの規則性などが指摘されている。 A県某市では昼間にふらっと現れ横断歩道の辺に立ち、小一時間の間、歩行者信号が青になるたびに横断歩道をひたすら往復するババアが報告されている。この活動はなんらかの儀式ではないかという指摘もある。 不審者対策として不審な人物を見かけた場合元気よく挨拶するようにと小学生に指導している地域もあるようだが、この信号機ババアに挨拶すると、儀式を乱されたことに怒りを感じるのか、追いかけ回してくるとされている。なお、この信号機ババアに追いかけられ捕まったという例の報告はなく、逃げ切れなかった場合どうなるかは不明である。 そのほか、歩行者信号が赤であるにも関わらず横断歩道を渡りたくなる、なぜか急に横断歩道の反対側へ行きたくなるというような気分になったことがある人がいるかもしれないが、これは怪異の仕業であるとする説もある。 ※本記事の内容は9割方適当です。

saikinn-no-tanka_20210617

 ネタがないのでこれまでに詠んだ短歌をまとめておきます。 解説するのも無粋といえば無粋ですが、話したくなるのが人間というものなので一言二言説明を加えさせてください。 ・新緑や虫取り網の少年がこんな街にもいるのだと知る これはそのままですね。僕なんかは田舎で育って小学生のころはよく虫取り網を持って走り回ったものですが、都市部にも一応は虫を追う少年がいるのだなと。 ・傘を打つ雨音脳に滲み入りて歩く理由を忘れぬるかな 特に言うことはないです。 ・「大人でも弱音を吐いたりしていいの?」問うてみたとて答える者なし 台詞というか口語的な言い方を入れるのが好きです。 ・ぼくたちの脳を操る腸内の微生物たちすべてくたばれ 腸内細菌が脳を操るなんて突飛な話に聞こえるかもしれませんが、natureダイジェストの2021年5月号の表題が「腸内細菌が宿主の脳を変える!?」になっているとおり、腸内細菌と脳の活動の関連が示唆されています。( https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v18/n5 ) GIGAZINEでもこの手の話をたまに見かけます。 一例↓ 若い頃に砂糖を摂取し過ぎると脳の記憶機能に悪影響が出ると判明、鍵は「腸内細菌」か - GIGAZINE https://gigazine.net/news/20210402-bacteria-with-sugar-act-brain/ ・太陽系50億年のその歴史すべてを巡るそんな夢を見た 実際には46億年くらいらしいです。

【ラジオ番組紹介】熊木杏里 夢のある喫茶店

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 ラジオ番組回です。 北海道福島長野富山石川京都で聞ける熊木杏里 夢のある喫茶店。 シンガーソングライターの熊木杏里さんがパーソナリティを務めている番組。なんというかほんわかした雰囲気です。包み込むような優しい声、寄り添うような語りかけ方、こんな人だからあれだけ素敵な曲を作れるんだなと思います。リラックスして聴ける番組です。 おすすめの曲は「春の風」です。

源順の名誉回復

 アジサイの漢字は源順(みなもとのしたごう)が白居易の詩から誤って引用したという話を先日しましたが、その話だけで終わるとなんだかかわいそうなので源順のすごいところを紹介しておきます。Wikioediaレベルの話ですが。  彼が成し遂げた偉業のひとつは『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう、略称は和名抄「わみょうしょう」)という辞書を編纂したことでしょう。名詞をまず漢語で集め、意味により分類し、万葉仮名によって日本語に対応する読みをつけたうえで漢籍を引用しながら説明を加えたもので、今日でいう国語辞典や漢和辞典、百科事典のような要素を持つようです。 「当時から漢語の和訓を知るために重宝され、江戸時代の国学発生以降、平安時代以前の語彙・語音を知る資料として、また社会・風俗・制度などを知る史料として日本文学・日本語学・日本史の世界で重要視されている書物である。」 という記述を見る限り、平安時代以降の人々にとって幅広い知識を得る源泉であり、現在の歴史研究にとっても非常に意義のあるものなのではないでしょうか。しかも編纂をしたとき、まだ20歳代だったというから驚きです。  写本が国立国会図書館のデジタルコレクションにあるので見てみるのも面白いと思います(→ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544216 )。  さらに、" 梨壺の五人 "として『万葉集』の解読、『後撰和歌集』の編纂などに携わったほか、和歌の名人として三十六歌仙の一人にも数えられ、その才人ぶりが伺えます。  今日の記事をもって源順の名誉回復とさせてください。 参考:Wikipedia「源順」「和名類聚抄」

music_subscribe

 先週の金曜日(11日)の「日食なつこの拝啓、あをいめだま小いぬ」で音楽のサブスク……つまり、月額制音楽ストリーミングサービスの是非、みたいな話がありました。 なつこさんの見解としては、便利だけど音楽がどうしてもBGM的になってしまうのではないか、曲のために財布を痛めて「この曲が本当に好き!」という感覚が薄れてしまうのではないか、とのことでした。 自分は音楽のストリーミングサービスとしてはAmazon Prime会員なのでPrime Musicを使ってるくらいです。追ってるアーティストはMP3ダウンロードで買ってます。それでもたまに、好きな曲なのに「いつでもYouTubeで聴けるからいいや」みたいな妥協から買わなかったりします。本当に好きだったらやっぱり買わなきゃですよね、反省しました。 みなさんはどう思いますか。

紫陽花

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 アジサイを漢字で書くと紫陽花だということは広く知られているところであり、僕も知っていたがなぜ紫(むらさき)の陽(ひ)の花なのかということはあまり考えたことがなかった。 Wikipediaを見ると、唐の詩人、白居易が別の花、おそらくライラックに紫陽花と名付けたのを平安時代の学者、源順(みなもとのしたごう)がアジサイにあてたことで誤って広まったとのこと。 意外な理由だった。 ちなみに白居易が紫陽花と名付けた詩は以下の通り( https://kanjibunka.com/yomimono/rensai/yomimono-9281/ より引用)。  何年植向仙壇上  (何れの年にか仙壇の上に植えたる)  早晩移栽到梵家  (早晩[いつ]か移し栽えて梵家[ぼんか]に到る)  雖在人閒人不識  (人間[じんかん]に在りと雖も人識らず)  與君名作紫陽花  (君の与[ため]に名づけて紫陽花と作[な]す) そんなアジサイを今日見に行った。僕はけっこうアジサイが好きなのだ。好きな花トップ3には入る。そもそも思い浮かべたときに名前と見た目が一致する花が多くないのだが… 思えば、農村地域に育った僕にとって季節の変化というのはどちらかと言えば受動的に感じるものだった。花や草木はもちろん、山菜や海藻、蛙や雉や鷺の鳴き声。雪も積もるし新雪にウサギの足跡が残ってたりもした。アジサイだって家の庭にあったし近所にも軒先にアジサイがある家は多かった。都市部に来てみれば気候や天気で季節を察知することはあっても花や草木が目につく機会というのは多くはない。季節の移り変わりを愛でるためには自分から捕まえに行かねばならぬ。 このブログを読んだ皆さま方もぜひ家族や恋人や友人と梅雨を愛でに行き、アジサイに関する薀蓄でも披露してみてはどうだろうか。 以上

砂漠

 この数年間、前に進んではいたが僕が歩いてきたのは砂漠だった。 砂漠をひたすら突き進むのも夢があるが、それができるほど僕は強くなかった。 並の人間なのだから、本当は潤いが必要なのだ。 もっと早く気づいていたかもしれないが、方向転換するのが怖くて自分を騙していた。 でも、このまま砂漠を進み続けても干涸らびて骨になるだけだ。 僕はこれからオアシスを探しに行く。

青のボールペン優遇問題

 何か書類を書くとき、筆記具の指定が「黒か青のボールペン」となっていることがたまにあります。黒のボールペンだけでなくなぜ青も可なんでしょうか? 「青のボールペン 書類」と検索すると同じような疑問に答えるサイトがけっこう出てきます。どうやら昔万年筆を使っていたころの名残のようです。 以下、Wikipedia「万年筆 > 万年筆のインク > インクの種類と組成」より。 旧来、万年筆を使用してそれらの性質を必要とする公文書などを書き記す場合、化学反応によって紙に定着するタイプのブルーブラックインク(没食子インクの一種)が使われてきた。このインクはイオンの状態で鉄を含んでおり、これが酸化されて黒色の沈殿を生じる事によって紙に定着する。これの反応が進む様子はインクの色によって知ることができ、筆記直後には比較的青い色をしているものが、日にちが経って反応が進むと次第に黒ずんでくる。 しかし、文具メーカーとしては公文書には黒インクの使用を推奨するようなので黒を使おうと思いました。 https://www.zebra.co.jp/zebra/ball9.html (ゼブラ) https://www.pilot.co.jp/support/ballpen/post_19.html (パイロット)

死なないこと 楽しむこと 世界を知ること

 このワードをGoogle検索すると、村上龍のエッセイがトップに出てくると思います。 もともとは有名投資家のジム・ロジャーズが"人生で最も大事なこと"として発した言葉で、どうやら、これに感銘を受けた村上龍がエッセイの副題にしたり、小説中で使ったりしているようです。自分は「心はあなたのもとに」という小説を読んでいるときにこの言葉を知りました。 自分もこの言葉がけっこう好きです。この言葉の3つの要素はそれぞれ同格ではなく、もともとのジム・ロジャーズの発言に照らせば、優先順位を示しているようです。つまり、死なないことが人生の最優先事項です。 若者の自殺のニュースをよく見ます。政府にも孤独・孤立担当大臣なんて役職ができました。 自分は日本中の人に呼びかけることはできませんが、少なくともこのブログを読んだ人は死なないことを最優先事項に、楽しむことを二番目に、世界を知ることを三番目に置いて頑張ってください。

梅雨か夏か

 例年より随分早く梅雨入りしたというが、その梅雨はどこへ行ったのやら。6月上旬ながら暑い日が続きますね。 今朝ふと思い立って、今年もアロハシャツをポチりました。昔、近所のおじさん(とおじいさんの境目くらいの年齢の人)が夏の黄昏にアロハシャツを着てよく犬の散歩をしていて、アロハシャツが似合うおっさんに憧れています。 届いても梅雨明けが宣言されるまでは着るのを我慢していようと思います。季節を愛する人間なので。梅雨のうちは梅雨の気分を捨てたくないので。

何が言いたい??

 私は自分は中学生みたいだなとよく思う。 人はなぜ生きるのだろうかとか、生きている意味があるのだろうかとか、10代の半ばに誰の心にも一度は浮かび、そしてまもなく振り払われる雑念を、私だけはずっと振り払うことができずにいる。そういうことを考えて、目の前の問題とは向き合えずにいる。モラトリアムをまだまだ享受したい。 そんな中、同世代の多くが世に羽ばたいていく歳となり、親しかった人間が二人、中学校の教師になったことに因果めいたものを感じずにはいられない。 朝食を食べて歯を磨いているとき。洗濯物をハンガーにかけ干しているとき。消灯して布団にもぐってスマホを弄っているとき。人がまばらなホームで電車を待っているとき。そんな、ふとした瞬間に「彼らは今どうしているのだろう」と心に浮かび、そのたびに「そうか、私はまだ中学生で彼らはもう中学生を教える教師なのだ、どうしようもなく隔たってしまった」と思う。 もう2年近く彼らには会っていないが、次に会ったときに私は正気でいられるだろうかと考えてしまう。