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誰もわかってくれない 傷つかないための心理学

 誰もわかってくれない 傷つかないための心理学 ハイディ・グラント・ハルヴァーソン/高橋由美子訳 (No One Understand You, And What To Do Abou It   Heidi Grant Halvorson) われわれのコミュニケーションにおいては相手に意図した通りのメッセージが伝わるとは限らない、むしろ状況によっては意図しない方向に受け取られがちになったりする。そういったことはなぜ生じるのか、それを避けたいのであればどうするのがよいのか、という話。 少し厳しめに書くと、全体的に「〇〇という事例がありますが、あなたにも同様の経験がありますよね。これには✕✕という心理が働いて▲▲というプロセスを経てそういうことが起こってしまうんです。これは■■の実験でも裏付けられています!」という論調で、要領を得ないということはないが"ふわっと"している感じは否めなかった。誤解されないために、相手のバイアスを緩和するためにどうすることが必要か、ということも書かれているがそこもかなり抽象的に感じられた(これに関してはまあ、具体的で現実的で実体的な小手先の行動や言葉が万人に通じるほど人間の心理というのは単純なものではないということなのだろうが)。とはいえ、コミュニケーションスキルに乏しい私にとってはそんな抽象的でふわっとしたアドバイスさえも多少の参考となるものだった。 私たちが他者を判断するプロセスは二つの段階を経るという。第一フェーズが思い込みによる"自動的な"判断、第二フェーズが(自動的でなく、)努力を必要とする"最初の印象に修正を加えていく"判断だそうだ。つまり、自分が判断される側のときはまず相手が極端な思い込みをしないようにすること、そのうえで悪い印象を与えたときは相手がその判断を修正するよう仕向ける必要性がある。 人間というのは本当に知能をよく発達させた動物だが、それでもこの第一フェーズのように、些細な思考・判断に割くリソースを出し惜しみしているのは不思議なものだと思う。むしろ、些細なことについては自動化してしまったからこその発達なのかもしれないが。 なかなかまとまりのない文になってしまったが、まあ、他人からは自分は自分が思うようには見えていない、ということを意識して生きていきたいという...

批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義-

 批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義- 廣野由美子 批評理論についての書物は数多くあるが、読み方の実例をとおして、小説とは何かという問題に迫ったものは少ない。本書ではまず、「小説技法篇」で、小説はいかなるテクニックを使って書かれるのかを明示する。続いて「批評理論篇」では、有力な作品分析の方法論を平易に解説した。技法と理論の双方に通じることによって、作品理解はさらに深まるだろう。多様な問題を含んだ小説『フランケンシュタイン』に議論を絞った。(「BOOK」データベースより) 先日読んだ 「小説読解入門-『ミドルマーチ』教養講義」 でも参考として挙げられていたため購入。前半の「小説技法篇」は「小説読解入門」にも同じパートがあるように、重なる部分も多かったが題材として扱うものが「フランケンシュタイン」となっており以前読んだことを追認しつつ楽しみながら読むことができた。 後半の「批評理論篇」では実際にフランケンシュタインに向けられた批評や、"文学作品に対してよく用いられるこのような批評の視点に立てばこう批評することができる"というように筆者が挙げる例を通して批評の手法を(そこまで深堀りはしないながらも)網羅的に学ぶような形となる。これまでの自分が読んできた作品について「〇〇についてはこういう見方してたな」とか「あれをこの論点から批評すると面白いかもな」などと考えながら読むのが面白かった。 小説や映画などが好きな人は読んでみて損はしないように思う。ちなみにフランケンシュタインを読んだことがなくても問題ない。私もフランケンシュタインという科学者が人造人間をつくってそいつに殺される、くらいのことしか知らなかった。

地方出身者の標準語での感情表現・感情発露

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なにかの調査報告のような仰々しいタイトルをつけたが単なる主観的な逡巡であることを断っておく。 私は地方出身者だ。そんな私にとって、思春期ごろまでは標準語というのは基本的にテレビや本、学校の教科書などで触れるものであって自分が話す言葉としては捉えていなかった。 私が生まれ育った地域周辺では、祖父母の世代においても学術的に研究されるようなレベル(youtubeなどで"方言"を調べると様々な音声が聞けるがその音声のようなレベル)で方言というものが色濃く残っているわけではなかったが、イントネーションやアクセントのちょっとした訛り、標準語的ではない語尾(ステレオタイプな例となるが関西地方で話される「~やで」、博多弁の「~たい」のような)は年代問わず浸透しており、それに関して私も例外ではなかった。ここではそういう言葉を「お国言葉」と呼ぶこととする。 私を含めた子どもたちははじめ、家庭で聞き馴染んだ(両親や祖父母が話す)お国言葉を話すが、小学校の中学年ごろには敬語を少しずつ学んでいき、教師や友だちの親などに対してはそれまで話していたものとは異なる言葉を話すようになる。とは言っても教師や友だちの親の多くもお国言葉の話者であり、子どもたちが話すのはお国言葉に標準語の敬語が入り混じった"ネオ敬語"であった。入り混じりの度合いは成長とともに変わっていき徐々に自然な標準語に近づいてはいくが、高校3年生になってもネオ敬語を話すような人間も少なくはなかった(私はどちらかといえば標準語に近いほうであったという自覚はあるがそれでも多少はお国言葉も混じってしまっていただろう)。 それからやがて私は大学進学に際し、生まれ育った地域を離れた。私は活字によく触れていたし、部活動や地域活動で目上の人と関わる機会も十分にあり、標準語は話せるつもりでいた。そして実際私はある程度うまくやったのだ。学校の先輩やアルバイト先の社員さんなどとは普通に話せていた(つもりだ)。しかし、地元を飛び出してみて初めて気づくことがあった。 私は標準語の"タメ語"を話したことがなかったのだ。同学年の人間と話すのが怖かった。 いつからそういう脳内の回路ができたのかはわからないが、私は相手に応じて"お国言葉"の程度を(はじめは意識していたのかもしれないが今と...

MLB ナショナル・リーグ ワイルドカード

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 メジャーリーグのレギュラーシーズン全日程が終了し、プレーオフが始まった。昨日はナショナル・リーグのワイルドカードがあった。 MLBのプレーオフのシステムは日本とは大きく異なる。二つのリーグにそれぞれ東・西・中の3地区があり、各チームはレギュラーシーズンでは地区での優勝を目指すことになる。地区優勝の3チームに加え一発勝負のワイルドカードと呼ばれる敗者復活戦を制したチームを含めた4チームでリーグ優勝を競う(図)。 昨日はナショナル・リーグのワイルドカードがあり、ロサンゼルス・ドジャースとセントルイス・カージナルスが戦った。ドジャースは昨季ワールドシリーズを制すなど、言わずと知れた強豪である。今年は僅差で地区優勝を逃したものの、ワイルドカードからのリーグ優勝・世界一を目指す。カージナルスは当初ワイルドカード圏内に入ることも難しいと思われていたがシーズン終盤に驚異の17連勝を記録するなど勢いに乗っているチームだ。 試合は世界最高峰のリーグのプレーオフらしく、最終盤までもつれる大接戦。両チームとも投手陣が踏ん張りを見せたが、1-1の9回裏にクリス・テイラーが2ランホームランを放ちドジャースが地区シリーズへの進出を決めた。ドジャースは地区シリーズではわずか1勝差でリーグ優勝を譲ったサンフランシスコ・ジャイアンツと対戦する。 このドジャースとジャイアンツは伝統的にライバル関係にあるチームとされながら、この2チームがプレーオフで対戦するのは史上初だという。今季ジャイアンツがシーズン107勝でドジャースは106勝。プレーオフで対戦する2チームの合計213勝は史上最多で、105勝以上をマークした2チームが対戦するのも初めてのことだという。この2チームのレギュラーシーズンの直接対決はジャイアンツが10勝、ドジャースが9勝。この地区シリーズでも激戦が予想され、非常に楽しみだ。

暑くない9月と崖

 皆様におかれてはこの9月を振り返ってどういう感想を抱くだろうか。 8月を振り返る記事では「9月も目の前だというのに猛暑日だった」と言ったがその割には、9月に入ってから暑い日があまり多くはなかったように思う。概して過ごしやすい日々だったように思う。たまにある暑さがまさしく"残暑"だと思えた(近年では9月の暑さは「こんなの残暑じゃなくてまだまだ"本格的な暑さ"だよ!!」という感じだったのだが)。 9月になって変わったことと言えば私の場合はまず就職活動のことをちゃんと考えるようになったということが挙げられる。周囲の様子を見聞きしたり先輩の話を聞く限りではまだまだ序の口といった程度の力の入れ具合だが、一応はスタートを切れたことそれ自体をまずは良しとしたいと思う。就職活動といえば大学生を悩ますイベントランキングで1位2位に食い込んでくるものであると思われるが、まだまだ走り出したばかりの自分にもその辛さの一端は見えてきたのでいつかはブログ記事にしたいと思う。 それから9月になってからブログにプロフィールページを作った。それからマシュマロのアカウントも作った。ブログのネタやお題、質問などいただけると投稿ペースの維持に役立ちそうなのでご協力いただけると嬉しい。 秋口になると毎年のように言っている気がするが、秋といえば米やサツマイモの収穫があり、栗もとれるしサンマも美味いから、食い物に負けないくらい実りの多い期間にしたいと思う次第である。

大学院生のメンタルヘルス

 「悲観することはない」とか「楽しんでいこうぜ」みたいな論調でブログ記事をいくつか書いているくせに、夜、寝付けず枕元のスマートフォンを手にとって「大学院生 うつ」などと検索している自分がたまにいる。 おそらくこれは単に私がマイナス思考人間だからというだけの話ではない。大学院生のメンタルヘルスの問題というのは近年、NatureやScienceなどといった権威ある学術誌で頻繁に取り沙汰されるトピックである(博士課程の学生に焦点を当てているケースが多いが修士課程の学生においても同じような指摘がある)。 https://www.nature.com/articles/nbt.4089 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jinbunxshakai/1/1/1_107/_article/-char/ja/ たとえば、2018年に nature biotechnology に掲載された記事によれば、カリフォルニア大学バークレー校が「生命科学分野の大学院生のうち43-46%が抑うつ状態にある」と報告しているようである。また、この記事の著者は、大学院生は一般の人と比べてうつ病や不安状態を経験する割合が6倍以上に上ると報告している(ただし、このアンケートは無作為抽出で行われたものではなく自己応募型であり、選択バイアスが生じた可能性があることに留意したい)。その原因としてはワークライフバランス(研究に供する時間・労力とプライベートとのバランス)、主任研究者との関係などが指摘されている。 また、下の「人文×社会」の論文でもワークライフバランス、指導教員との関係、キャリアパスの不安、経済的理由などが指摘されている。 ここからは私の体験から抑うつ状態や不安感情が生まれる原因を考えてみたい。 ---- ワークライフバランスについて言えば、(研究分野によって差異は大きそうだが)たしかにコアタイムによって平日はほとんど拘束され、学部生のころと比べると自由な時間はなかなかとれない。また、稀に21時や22時まで残らざるを得なくなることもある。忙しさには波があって、ほとんど一日中手を動かしているような日もあれば、あまりやることがない日もある(そういうときは関連分野の論文を読めという話なのだろうが)。正直にいうとあまりやることがないにも関わらず、コアタイムに拘...

追想五断章

 追想五断章 米澤穂信 大学を休学し、伯父の古書店に居候する菅生芳光は、ある女性から、死んだ父親が書いた五つの「結末のない物語」を探して欲しい、という依頼を受ける。調査を進めるうちに、故人が20年以上前の未解決事件「アントワープの銃声」の容疑者だったことがわかり―。(Amazon、「商品の説明」より) この本の紹介を書くとはいいながらなかなか筆…というよりはキーボードを叩く指が進まず、遅くなってしまった。先日読み返してみたので簡単にではあるがまとめてみたいと思う。 ひとつ感じるのは、誰しも背負っているものがあるということだ。芳光にも、芳光を居候させてくれている伯父の広一郎にも、物語の探索の依頼主である北里可南子にも、その亡き父である北里参吾にも。 当人の置かれている状況を知っていくにつれてその人の背負っているものが何かを想像することはできるが、相手は明確には口にしないし確信を得るには至らない。現実を描写するのに「彼は悲しい」「彼女は嬉しい」という文章はあり得ない。あっても「彼は悲しそう」「彼女は嬉しそう」だ。他者の感情を断定することはできない。 相手の感情を察して気遣ったり、優しくしたりすることはできるが、それは的外れですれ違うこともある。この物語は「参吾はなぜ物語を残したのか」「なぜ可南子は父の遺した物語を探すのか」が軸であるが、そういったすれ違いの物語でもある。 私たちは自分以外の人が何を感じているのか、何を考えているのかを想像することで人に優しくすることができるし、そういった気遣いが社会を成り立たせている部分もある。しかしながら、想像することがかえって失礼なことになる(「人の心情に土足で立ち入る」というような言い方もある…)場合もある。これらの境界は曖昧で地雷原を歩くようなものだったりもするのだが、そういった状況で自分はどうするか葛藤することができるのは一つの美徳だと私は思う。