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時代遅れ?

 週末はマンガワンでラストイニングを一気読みしてました。 印象に残ったのは春日野大栄の前監督(のちに総監督)の話。 いわゆるスパルタ指導で強豪校を長年率いてきたが、時代が変わるとともに生徒の気質も変わって父母会などとも対立し退任することになった監督。 体罰や理不尽なしごきを肯定するわけではない(少なくとも体罰には全面的に反対だし、しごきもしごく側としごかれる側にある程度の信頼関係が必要だと思う)が、相当に出来た人物でもない限り大人から締め上げられる経験が必要というか、そうされないとわからないようなこともあるよなと思いました。 冷静かつ粘り強く諭して、道徳や社会の構成員としてのあり方を教えるのが理想なんだろうけど、現実としては上から強く抑えつけることで社会の秩序が保たれている(そうでないと保たれない)部分もあると思うんですよ。 こんなふうに思う僕はハラスメントやいわゆる"老害"の予備軍ですかね?

寛容の涵養

 寛容でありたい。 ただただそう思う。 しかし寛容マインドで接することが後々になって却ってあれは冷酷だったなとなることもある。寛容と無関心は表裏一体だと思う。 そういうときは相手に提案とかお願いをする形になるのだろうか。「命令」したうえに「お前のために言ってやってるんだぞ」とか恩着せがましかったら最悪だ。 いずれにせよ相手との関係をしっかり考えなければならない。関係というのは上司と部下、先生と生徒というように明確に決まったもののことでもあり、どれだけ親しいかという話のことでもある。関係によって相手に通じる言い方というのも変わってくる。

箸が転んでも悲しい年ごろ

 箸が転んでもおかしい年ごろ、なんて慣用句があるけど僕はもうずっと何年も箸が転んでも悲しい年ごろだ。 まだ眠いのに朝が来るのも、寝たいときになかなか眠れないのも、好きなプロ野球のチームが負けるのも、帰ってから朝のごみ出しを忘れたと気づくのも、冷蔵庫の中で玉ねぎが干からびているのも、食器用洗剤を買い忘れたのも、漢字が思い出せなくなっているのも、休日にやることがないのも、夜の7時を過ぎてもまだ外が明るいのも、自分に友人がいないのも、ミスタイプすうrのも、字が汚いのも、スマホのバッテリーの減りがはやくなってきたのも、読書に集中できないのも、好きだった歌をもうずっと聴いていないのも、デスクトップにファイルが増殖しつづけるのも、それをなんとかしようと作った「一時ファイル置き場」というフォルダが肥大し続けるのも、もう6月が終わるということも、邪なことを考えてしまうのも、何週間も床の掃除をしていないのも、どうでもいいメールの通知にいちいち反応するのも、全部が悲しい。

今日の怪文

 昨日は散歩をした。8キロほど歩いた。 歩きながら色々考えた? 考えさせられた? 考えざるを得なかった? どういう成り行きで? 因果で? きっかけで? その考えが浮かんだのかはわからない、記憶にない。とにかく不意に「いったい自分は何をやっているんだ?」という気持ちが湧いて一人で苦しくなった。ここ数年の自分の 心構えに? 言動に? 行動に? 生活に? すべてに? すべてに。 とにかくここ数年の自分のすべてに腹が立った。自分には何もない。志もなく、能力もなく、仲間もいない。苛立ちだとか妬み嫉みだとか汚い感情を自分のなかでひたすら循環させて増幅するばかりだ。そしてそんな自分に気がついてさらに気が狂いそうになる。気が狂いそうになるのを飼いならさなければならないと思う。 狂う? 狂わない? 投げ出す? 投げ出さない? 諦める? 諦めない? 諦めない。 猛獣使いにならなければならないと思う。 折り返し地点の公園にはハトと花と木とヒトとベンチがあった。ベンチに腰かけ、空を見て、木を見て、花を見て、土を見て、ため息をついた。 ハトを見ていると気持ちが落ち着いた。木とハトの二者択一を迫られたときはハトを選ぼう。 花を見ているとさらに気持ちが落ち着いた。ハトと花、どちらかを選ばなければならなくなったら花を選ぼう。radikoでラジオを聞き始めるとさらに気持ちが落ち着いた。花とラジオの二者択一を迫られたときはなんとかして両方選ばせてもらおう。 自分はよく顔が怖いだとか近寄りがたいと言われるが、草木や花を眺めたり好きなラジオ番組を聞いたりしているときは優しい気持ちになれている気がすると自分では思う。自分を優しい気持ちにさせてくれるものを大切にしよう。 この日はゴミ袋を携行して、道に落ちているゴミを拾いながら歩いた。来世のために徳を積まねばならないからだ。というのは半分冗談で、勇気がない人間になるのが嫌だからだ。ゴミに気づいていないのはともかく、ゴミに気づきながら見ていないふりをするのは勇気がないということだ。それが、時間に追われている通勤や通学時ではなく気ままな散歩のときならなおさらだ。 義を見てせざるは勇なきなり、というのはそういうことなのではないだろうか。 できた人間だとかキレイ好きだとかそういうことはどうでもいいだろう。ただ、勇気がないと思われるのは、腰抜けだと思われるのは我...

板チョコ

 子どもの頃、板チョコにそのままかじりつくのに憧れていた気がする。単純にお金がなかったから、20円とか30円のお菓子をよく買っていた。少しお金を持つようになった中学生以降はとにかく常にお腹が空いていて、100円あったら手軽に腹を満たせる惣菜パンばかりを買っていた気がする。 今でもお金に余裕があるわけではないが、100円の板チョコを買うのに気苦労するほどでもない。運動もあまりしなくなって、手軽にカロリーを多く摂取できる惣菜パンを買う必要もなくなった。今こそ、板チョコにかじりつくべきときなのだ。 しかし、事態はすでに手遅れだった。甘いものを一度にたくさん口に含むと気持ち悪くなる歳になってしまい、結局割りながら1ピースずつ食べている(貧乏性が染みついているということもあるが)。 夢は夢のまま終わるものだ。

頽廃空虚的現代怪異譚_No.1「信号機と怪異」

信号機(交差点)は現代の怪異に好まれるスポットのひとつである。 その理由としては、交通事故が起き人が命を落とす場所であるということ、横断歩道を渡ることが三途の川を渡ることに通ずるのではないかということ、その動きの規則性などが指摘されている。 A県某市では昼間にふらっと現れ横断歩道の辺に立ち、小一時間の間、歩行者信号が青になるたびに横断歩道をひたすら往復するババアが報告されている。この活動はなんらかの儀式ではないかという指摘もある。 不審者対策として不審な人物を見かけた場合元気よく挨拶するようにと小学生に指導している地域もあるようだが、この信号機ババアに挨拶すると、儀式を乱されたことに怒りを感じるのか、追いかけ回してくるとされている。なお、この信号機ババアに追いかけられ捕まったという例の報告はなく、逃げ切れなかった場合どうなるかは不明である。 そのほか、歩行者信号が赤であるにも関わらず横断歩道を渡りたくなる、なぜか急に横断歩道の反対側へ行きたくなるというような気分になったことがある人がいるかもしれないが、これは怪異の仕業であるとする説もある。 ※本記事の内容は9割方適当です。

saikinn-no-tanka_20210617

 ネタがないのでこれまでに詠んだ短歌をまとめておきます。 解説するのも無粋といえば無粋ですが、話したくなるのが人間というものなので一言二言説明を加えさせてください。 ・新緑や虫取り網の少年がこんな街にもいるのだと知る これはそのままですね。僕なんかは田舎で育って小学生のころはよく虫取り網を持って走り回ったものですが、都市部にも一応は虫を追う少年がいるのだなと。 ・傘を打つ雨音脳に滲み入りて歩く理由を忘れぬるかな 特に言うことはないです。 ・「大人でも弱音を吐いたりしていいの?」問うてみたとて答える者なし 台詞というか口語的な言い方を入れるのが好きです。 ・ぼくたちの脳を操る腸内の微生物たちすべてくたばれ 腸内細菌が脳を操るなんて突飛な話に聞こえるかもしれませんが、natureダイジェストの2021年5月号の表題が「腸内細菌が宿主の脳を変える!?」になっているとおり、腸内細菌と脳の活動の関連が示唆されています。( https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v18/n5 ) GIGAZINEでもこの手の話をたまに見かけます。 一例↓ 若い頃に砂糖を摂取し過ぎると脳の記憶機能に悪影響が出ると判明、鍵は「腸内細菌」か - GIGAZINE https://gigazine.net/news/20210402-bacteria-with-sugar-act-brain/ ・太陽系50億年のその歴史すべてを巡るそんな夢を見た 実際には46億年くらいらしいです。