アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
現代SFの金字塔。実は読んだことがなかった。 物語の読み方は様々であるが、この作品についてテーマをまず一つに絞るのなら、高度に発達した人間型ロボット(アンドロイド)と人間の区別、関わりがテーマであり、もう少し踏み込んで言えばアンドロイドと人間の対比によって「人間とはなにか」を浮き彫りにしていると言える。 そして「人間とはなにか」「人間とアンドロイドはなにが違うのか」という問いへの答えはマーサー教の教義が全人類の一体感・感情の共有であることからも、アンドロイドと人間を見分ける手法であるフォークト=カンプフ法の評価基準が他者への共感の度合いであることからも、暫定的には他者への共感・感情移入ということになるだろう。 しかしながら、「ネクサス7型ではカンプフ法による区別はできないかもしれない」というような描写(既にレイチェルをテストで判別するのには困難を伴った)や、(テストによる評価ではなくあくまでリックの主観的な評価として)「あまりにも人間らしいアンドロイドに出会った」というような言及があることから、それもまた不確かなものであると言えるだろう。 一方で物語の終盤、テレビ放送での暴露によってマーサー教が作り物であるということが知れ、「共感が人間だけのものなんて嘘っぱちだ」と狂喜乱舞するアンドロイドたちは、クモの足を切断していくことに強い抵抗を示すイジドアの感情を全く理解できないという態度を示しており、最新のネクサス6型と人間の間にも依然として大きな違いがあるとも思わされる。 タイトルに電気羊とあるように人間以外の動物もロボット化されているため、人間-アンドロイドという対比をさらに広げて、生物-ロボットという見かたもできるのかもしれない。 === 各シーンについては先述の、アンドロイドたちが興味本位でクモの足を切断していくなかイジドアが強い抵抗感をもつというシーンが特に印象的だった。フィル・レッシュやレイチェルとの関わりのなかでリックがアンドロイドに対しても共感を持ちつつあるということを描いたのちにこれがきたのは、"やはり人間とアンドロイドとでは大きな隔たりがあるのでは"と強く感じさせられた。 あとは、イジドアのような特殊者(スペシャル)が俗にピンボケと呼ばれているのが印象的だった。原書ではどういう言葉を使っているのだろうか。知能テストをパスできず、死の...