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11月, 2021の投稿を表示しています

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

 現代SFの金字塔。実は読んだことがなかった。 物語の読み方は様々であるが、この作品についてテーマをまず一つに絞るのなら、高度に発達した人間型ロボット(アンドロイド)と人間の区別、関わりがテーマであり、もう少し踏み込んで言えばアンドロイドと人間の対比によって「人間とはなにか」を浮き彫りにしていると言える。 そして「人間とはなにか」「人間とアンドロイドはなにが違うのか」という問いへの答えはマーサー教の教義が全人類の一体感・感情の共有であることからも、アンドロイドと人間を見分ける手法であるフォークト=カンプフ法の評価基準が他者への共感の度合いであることからも、暫定的には他者への共感・感情移入ということになるだろう。 しかしながら、「ネクサス7型ではカンプフ法による区別はできないかもしれない」というような描写(既にレイチェルをテストで判別するのには困難を伴った)や、(テストによる評価ではなくあくまでリックの主観的な評価として)「あまりにも人間らしいアンドロイドに出会った」というような言及があることから、それもまた不確かなものであると言えるだろう。 一方で物語の終盤、テレビ放送での暴露によってマーサー教が作り物であるということが知れ、「共感が人間だけのものなんて嘘っぱちだ」と狂喜乱舞するアンドロイドたちは、クモの足を切断していくことに強い抵抗を示すイジドアの感情を全く理解できないという態度を示しており、最新のネクサス6型と人間の間にも依然として大きな違いがあるとも思わされる。 タイトルに電気羊とあるように人間以外の動物もロボット化されているため、人間-アンドロイドという対比をさらに広げて、生物-ロボットという見かたもできるのかもしれない。 === 各シーンについては先述の、アンドロイドたちが興味本位でクモの足を切断していくなかイジドアが強い抵抗感をもつというシーンが特に印象的だった。フィル・レッシュやレイチェルとの関わりのなかでリックがアンドロイドに対しても共感を持ちつつあるということを描いたのちにこれがきたのは、"やはり人間とアンドロイドとでは大きな隔たりがあるのでは"と強く感じさせられた。 あとは、イジドアのような特殊者(スペシャル)が俗にピンボケと呼ばれているのが印象的だった。原書ではどういう言葉を使っているのだろうか。知能テストをパスできず、死の...

Mi 11 lite 5G に MIUI アップデートがきた

MIUI 12.5.4 から MIUI 12.5.6 へのアップデートがきていたので更新した。 変更点①:メモリ拡張機能 一部ガジェットサイトなどでMIUI 13 から実装されるとされていた仮想メモリ(ROMの一部をRAM的に使う)だが、この 12.5.6 で既に対応してきた。設定>追加設定>メモリ増設 でこのメモリ拡張を使うか使わないか切り替え可能。 変更点②:セキュアエレメントの位置 Mi 11 lite 5G はハードウェアとしてはFeliCa(Suica や Edy など)とNFC(VISAタッチなど)の両方に対応していたものの、その双方を自動判別して同時に使うことはできなかった(FeliCaを使うかNFCを使うかを切り替えるには設定から"セキュアエレメントの位置"を変更する必要があった)。FeliCaとNFCの両方を日常的に利用している人にとってはなかなか難のあるこの仕様だったが、今回のアップデートでセキュアエレメントの位置のオプションに「自動選択」が追加された。これによりいちいち設定にアクセスしなくとも、FeliCaによる決済もNFCによる決済もどちらも使えるようになったっぽい。 == そのほか、常時オンディスプレイ(有機ELの省電力を活かして画面オフ後も黒背景に時計などを表示し続ける機能、ただし「常時」といいながら画面オフ後10秒間しか使えない)のオプションも増えた気がする(前から?)。 === あとは、2ヶ月前くらいから勝手にダークモードが適用される(コントロールセンターや設定での表示が「ライトモード」になっていても実際には「ダークモード」仕様になる。おそらく「ダークモードをスケジュール」を使っていた関係でそのへんが変になっている)ことがあったのでこのあたりが修正されていてほしい。(11月25日追記:改善されず。昨夜19時ごろ勝手にダークモードに。)(12月2日追記:なんか最近直っている気がする。) また、Mi 11 lite 5G はベンチマーク性能のわりに一部ゲームで異常に動作がカクつくと言われていたが、自分は3Dをゴリゴリ使うゲームはやっていないのでこのあたりはわからない。

禽獣

 伊豆の踊り子 川端康成(新潮文庫)を読んだ。表題作のほかにも「温泉宿」「抒情歌」「禽獣」を収録していたが、特に印象に残った禽獣について書く。 主人公はなにやら文化芸術の関係者であり、あくせく働いている様子はない。題にあるように禽獣つまり鳥や獣を飼い、女中を雇い、悠々自適とまでいうかはわからないが比較的余裕のある暮らし向きのようである。 印象的なのは彼の動物に接する態度だ。塀の外で子どもが騒いでおり、何があったのかと覗いてみると、ゴミ捨て場に雲雀のヒナがいた、育ててやろうと近づいて子どもの話を聞き、向かいの家の人間がそれを捨てたと知ると その家には、三四羽も雲雀を飼っている。ゆくすえ鳴鳥として見込みのない雛を棄てたのであろう。屑鳥など拾ってもしかたがないと、彼の仏心は忽ち消えた。 となる。また、次のような一節もある。    だから人間はいやなんだと、孤独な彼は勝手な考えをする。夫婦となり、親子兄弟となれば、つまらん相手でも、そうたやすく絆は断ち難く、あきらめて共に暮らさねばならない。おまけに人それぞれの我というやつを持っている。   それよりも、動物の生命や生態をおもちゃにして、一つの理想の鋳型を目標と定め、人工的に、畸形的に育てている方が、悲しい純潔であり、神のような爽やかさがあると思うのだ。良種へ良種へと狂奔する、動物虐待的な愛護者達を、彼はこの天地の、また人間の悲劇的な象徴として、冷笑を浴びせながら許している。  犬が妊娠・出産し、やるべきことはわかっていたのにそれをせずに、すぐさま全部の仔犬を死なせてしまったときも 彼は仔犬が死ねばいいと思ったわけでもなかった。だが、生かさなければならないとも思わなかった。それほど冷淡だったのは、彼等が雑種だからであろう。 とある。彼が冷淡というか理想主義的であるのは動物に対してだけではない。千花子という彼が一時関係を持った舞踊家が妊娠出産を経て"肉体の力はげっそり鈍って見えた"ときには「子供がほしかったんですもの」と言う彼女に向かって  「育てる気か。そんな女々しいことで、一芸に生きられるか。今から子持ちでどうする。もっと早くに気をつけろ」 などと言う。かつて千花子と心中しようとしたときにも、裾をばたばたさせるというから足を縛ってくれ、という彼女の註文に応え、彼女の...

11月に見た映画

 まだ11月は10日あるって?細かいことはおいておこう。 今日の内容はタイトルにある通り11月に見た映画だ。普通にネタバレブログとなるが有名作であるし、そう新しくもないためネタバレの忠告が本当に必要かと言われれば必要ではないかもしれない。 アナと雪の女王 ベイマックス モンスターズ・ユニバーシティ ●アナと雪の女王 Wikipediaによれば日本での公開は2014年3月14日。実に7年半前に公開とのこと。実は見たことがなかった。 感想としては「見て損はなかった」といった感じ。自分はディズニー作品をそうたくさん鑑賞してきたわけではないが、ディズニー映画らしい面白さ、楽しさというのは十分感じたし公開された年にそれなりに世間で話題となったのはうなずける。もう少し構成に厚み(?)があれば「見て損はなかった」から「見てよかった」になったのではないかと思う。たとえば最終盤、エルサが国に戻ってきてアナを救うシーン。エルサは聞く耳も持たずに散々アナを拒絶しておきながら、自分が放った氷の矢のせいでアナが危機に瀕してようやく妹へ駆け寄るというのには、そしてそれを「姉から妹への真実の愛が妹を救った」と言ってしまうのには軽薄な感じがするなという印象を抱いてしまった。「相手を大事に思っているが、傷つけたくないが故に干渉を拒む」というジレンマは理解できるしそういう葛藤が描かれてもいたが最後の最後でやや拍子抜けしてしまった(が、それと同時に王子がアナを救うのではなく、あくまで姉妹のストーリーで留めておいたところがこの作品の良さのひとつだと思う)。時間の制約があり、さらには小さい子どもにも訴求しなければならないから仕方がないところか。 ●ベイマックス 日本での公開は2014年12月20日。公開日を調べるために見たwikipediaによればスーパーヒーロー映画らしい。まあそうか。 アナと雪の女王より面白かったしけっこう好きだと思ったが、ここに書きたいと思うようなことはあまりない。 ・「ヒロはベイマックスを自力で完成させて彼と再会し、みんなと共にサンフランソウキョウの街を守るヒーローBIG HERO 6として、今日も人々を助けるのだった。(wikipediaより)」という幕引きには思わず「何だそりゃ」と言ってしまった。文句や難癖ではなくシンプルな驚き。 ・背景がアメコミ風?になっているスタッフ...

文字渦

文字渦 円城塔   秦の始皇帝の陵墓から発掘された三万の漢字。希少言語学者が遭遇した未知なる言語遊戯「闘字」。膨大なプログラミング言語の海に光る文字列の島。フレキシブル・ディスプレイの絵巻に人工知能が源氏物語を自動筆記し続け、統合漢字の分離独立運動の果て、ルビが自由に語りだす。文字の起源から未来までを幻視する全12篇。(新潮社ウェブサイトより転載) 紹介文にもあるように、文字、とくに漢字についての短編12篇。知的好奇心を刺激されるテーマであり実際面白いと感じたのだが、明確なイメージとして話、ストーリー、プロットを掴むのはなかなかに難しい(というか自分にはできなかった)。ジャンルとしては雰囲気系SF、あるいは雰囲気系ミステリーにでも位置づけられるだろうか。 表題作にもなっている『文字渦』は中島敦の『文字禍』を"もじ"ったものかと思われるが、実際には内容としては関連は薄かったように思う。 文字というのが単に音を表すためのものではないというのは、私たちのよく知るところかと思う。私たち日本人の多くは文字自体に意味を内包している漢字を日常的に、頻繁に利用しているからだ。では、「文字というのは単に音とその文字の持つ"意味"によって情報を伝達するためのものである」とした場合はどうだろうか。これにも首を捻る人はいるだろう。書道というものがあるように、私たちは文字に対して芸術性を見出すこともできる。同じ文章であっても使用されているフォントによって受け取る印象が違ってきたりする。もっと飛躍した例でいえば、私たちの先祖は文字に大きな"力"を見出して呪符としたり儀式の道具としたりしてきた。 このような、文字のもつ力・文字のもつ生き物のような性質を扱っているのがこの本だ。 12篇のなかで特に印象的だったのは『境部さん』が最初に出てくる話(タイトル忘れた)で、この世界ではディスプレイの薄型化が進み、ほとんど紙と変わらない薄さのものが広く普及している(というより用途として紙(主に植物の繊維を原料とする)をほとんど置換している)。紙(主に植物の繊維を原料とする)と区別するために超薄型ディスプレイのほうは帋と表記される。ここで境部さんが発した重要な問いかけは「帋に描かれた文字は本当にそこに"ある"と言えるのか」というもの...